久田恒子『母子草』(2017年)

4つの章からなる第3歌集である。といっても、最後の章「さくら月」は岩間郁子氏の章であるから、実際には3つの章からなると言うべきかもしれない。親子歌集というあまり見ることのない体裁をとっている。ここではその3つの章の歌を読んでいく。

まずは「木の葉しぐれ」というはじめに置かれた章より。

絆とはつね温かく後ろよりわが眼をふさぐ小さきてのひら

絆とはつね温かく……と、これは一般論かと思えばそうではない。だんだんとその姿があらわになってくる。単純ではない。そしてこの「絆」という語の使い方も、こう歌われてみると、いわゆる「絆」とは少しちがう感じが見えてくる。章のおわりのほうにこんな歌がある。

好き嫌ひ多き子のため祖母といふ絆が人参クッキーを焼く

先の「小さき手のひら」は孫の手のひらであったのだ。「祖母といふ絆」と言うとき、絆ということばにこもる温度は冷たくも熱くもない。親子ではなく、祖母と孫の距離感だなあと思う。でも、私にとっては見たことのない「絆」であった。

     *

読み始めて、すぐにおだやかな気持ちになる。一首に乗る思いはささやかだ。こちらが入っていく余裕がある。この一首のたたずまいは不思議だなあ、と思う。

涙いっぱい溜めてゐる子の言ひ分を腰をかがめて聞いてやりたり
降りますと席ゆづりくれし青年が長く吊り革にぎりつつ立つ

ゆったりとした動作が浮かんでくる。静かだ。子の言い分も、その顛末も、青年の気持ちもわからない。そして〈私〉の思いも。けれども、じんわりと伝わってくる。「聞いてやった」そのことがまず大切なのだ。そこに「腰をかがめて」と動作が入る。一首の構成は緻密だ。青年と〈私〉の奇妙な時間が流れる。バスの中には二人だけがいるような、その場面だけをじっくりと思わせるような描写の方法である。

美しく老いるといふは絵そらごと施設の友が匙へ口開く
ふんわりと月のひかりに包まれて影とふたりの路地もどり来る
ひと笛が組体操をくづしたり五月の風の光る校庭
蝶々とはしゃぎてゐたる背の孫がねむりはじめて重くなりたり

「絵そらごと」と言う視線は厳しい。「匙へ口開く」という直截な述べ方がそれをあらわしている。自らの影と自分との「ふたり」で歩く、という視線のほうへは注目させないようになっている。当然のごとく、「ふたり」で歩く。さしはさまれた「路地」に気をとられているうちに。ピーッと笛がなって、それに合わせてばさーっと組体操がほどかれる。この一瞬を「ひと笛が」「くづしたり」という。その一瞬の「動」と、そののちにおとずれる「静」が鮮やかに対照的だ。「重くなりたり」とさりげなく言う。自らはすーっと後ろのほうへ引きながら、細部を描き込むことで〈私〉の存在を感じさせない。

一杯ぐらゐ飲めよと注ぎてくれし夫お陰でいまも少し飲めます
赤とんぼわたしの指に寄っといでこんな日の暮れどきはなほさら
花に疲れ人に疲れしバス停になほも追ひくるさくらいくひら
群れ咲ける花大根にむらさきの雨の降りつつ風もむらさき

「お陰でいまも少し飲めます」にぐっとくる。こんな思い方があるんだなあ、と思う。そしてこんな歌い方があるんだなあ、とも思う。「こんな日の暮れどきはなほさら」は語気の強い下の句である。句またがりが性急に結語を求めている。あるいは「花に疲れ人に疲れ」のたたみかけ。それでもまだ追ってくる桜の花びら。すこしこわいくらいだ。「風もむらさき」によって世界はもういちど塗り替えられる。

     *

次なる章「蟬の終焉」より。

孫の婚聞きたる今日は何もかも輝きて見ゆましてや四月
いわし雲仰げば旅がしたくなる人の訪はざる寺へ古墳へ
かすかにも砂を起こして湧きいづる清水が山のみどりを映す
ひとりでは漕げぬシーソーに腰かけてままならぬ世の空を見あぐる

「ましてや四月」と一歩も引かない。ここにきて「人の訪はざる」という心境は複雑なものだろう。集中、ひとりの時間を余すような歌もいくらかある。「旅」なればこそ、「人の訪はざる」なのだ。いわし雲と心を並べるような風情がある。「かすかにも砂を起こして」のクローズアップから「山のみどり」まで大きく引いていく。さながら〈芋の露連山影を正しうす〉(飯田蛇笏)といった感じか。「ひとりでは漕げぬシーソー」というのは把握であるが、そこから「ままならぬ」を引き出している。これもひつとのズームアップと言えよう。

三つ目の章「歳月茫々」より。

抜けるやうな青空どこまでのぼれるか可能にしたき不可能もある
ふるさとの姉のもみたる干し柿の夕日のいろが今年もとどく
となり家の犬にソーセージ与へつつ手なづけといふ狡きことする
離れゆくもの多きこの世に律儀にも従かず離れずひとつわが影

決してそんなことはないのだが、どこか若書きとも思われる「可能にしたき不可能もある」という下の句におどろく。「干し柿の」の「の」でひと呼吸おいて、そこから「夕日のいろが」とあらためてその存在感が示されたのち、「今年もとどく」と、読者の前に差し出される。「狡きことする」の自らへの視線は「絆」を言うときの視線であり、また「絵そらごと」を言うときの視線でもある。この世を去ってゆくもの、だけではないだろう。出会ったものはいずれ「離れゆく」。そんな中にあって、つくともはなれるともせず、ただそばにある「影」の存在が、特異なものとして描かれている。「律儀にも」にはそれを不思議に思う気持ちも含まれよう。

静かなようで感情の機微は微かに震え、それが韻律ゆたかに描かれる。〈私〉のまわりを描くその視線の束からさりげなく〈私〉が立ち上がる、そんな歌集である。



*歌の引用はすべて歌集『母子草』(芸文堂、2017年)に依ります。
*拗音の表記など、旧かなの表し方についても歌集の表記のまま引用しています。

臨場感――虚構と文体と想像力と

吉岡太朗の短歌時評「短歌の自由」(『短歌研究』2018年1月号)から引く。

読者が「虚構」を問題視するのは間違っている。「虚構だ」と言いたくなるのは単に作品がつまらなかっただけだろう。そして作品が「虚構」であるにもかかわらず心を撃ったのならば、それは「優れた虚構」なのではなく、ただ単に「優れた短歌」なのである。



作品がつまらなかったときに、もし「現実風」の作品であれば、それを下手だと言いやすい。たとえば「ここはもっとこんな表現ができる」とか「正確さに欠ける」というふうに。しかし、それが「虚構風」の作品であれば、下手だと指摘するのは困難である。なぜなら、比較するべき「現実」や「正確」なものがないからだ。仮に作者にはその「現実」や「正確」なところがわかっていたとしても、読者はそれを一般には知り得ない。作者からの開示があったとしても、それをそっくりそのまま共有することは難しい。そこで「虚構だ」と言うのである。

――こういうふうに、読者としてのわたしの思考と行動を想像してみる。リアリティというのは「現実っぽさ」なわけだが、この「現実っぽさ」という表現は誤解を生みやすい。なにか1つの現実があって、それに対して「酷似している」とか「ぴったり重なる」とかそういうニュアンスを含んでしまうからだ。そこで私は「臨場感」ということばを思い浮かべるようにしている。

「現実っぽさ」「現実味」というのは、そのときそのときの個人個人の「臨場感」のことである。それぞれが瞬間瞬間に自分を置く世界の、いくつかの世界のなかのどこに自分がいることをより鮮明に感じられるか、それはおそらく同時にはたった1つなのだと思うが、それが作品世界であったとき、その瞬間、わたしはその作品にリアリティを感じていることになる。何か1つの現実に対してではない。自分を置きうるいくつもの世界に対して、なのである。そのいくつか、のなかには物理空間(いわゆる現実)も含まれうるが、それを基準にしたり、特別視したりする理由はない。

     *

もうひとつ、藪内亮輔の歌壇時評「リアリティという病」(角川『短歌』2018年1月号)から最後の段落を引く。

こう言っては身も蓋もないが、本当にリアリティを感じたかったら、散文や動画、漫画などで享受した方がずっといい。そもそもいろいろな表現様式の中から短歌を選んで、短歌という狭い窓を通して「事実」を変質させているのだ。そんなこと言ったら、短歌をする時点で「コスプレ」なのだ。目黒の連作の文体が山田にとって「「本気」が薄まっている」ように感じられてしまうとすれば、それは単にそもそもの文体の力が無かったのだ。



この2つのほぼ同時期に掲載された時評を交互に読みながら、なにか重なるところがあるように映ったのは、先に引いた吉岡の「単に作品がつまらなかっただけだろう」と、ここでの「単にそもそもの文体の力が無かったのだ」がまったくシンクロして思われたからだろう。

藪内さんの時評では、リアリティは現実(いま、わたしが生身の体を置いている、ここ)とはちがうところにもあって、そのことを読者・作者の両面から指摘している。吉岡さんの方も、読者の問題を論じながら、最終的には「短歌さん」(という巨大な作り手)の視点を導入して、作者サイドへの提案に至っている。このあたりの展開も織り合うようにわたしの中に入ってきて、その綱をのぼる思いでリアリティについて考えている。

作品世界のリアリティはどこから立ち上がってくるのだろうか。

     *

加藤治郎に「想像力の回復を」という文章がある(『うたびとの日々』、書肆侃侃房、2012年)。まず、東日本大震災後の短歌にとって「当事者とは一体だれ」なのかを問いながら、次のように述べる。

震災を自分の問題として受け止め、歌うとき、その人は当事者なのである。その源泉にあるのが想像力であることは言うまでもない。想像力は、直接的な体験を超える。



加藤の言わんとしていることは、シンプルに「直接体験したことを述べるだけが短歌ではない」ということだろう。つづけてフィクションの短歌教室が紙上で開かれているのだが、そこでは「直接体験したことこそが事実であり、それを短歌にするべきだ」という反論が批判をこめた形で演出されている。

実はこのあたり、先にあげた2つの時評とは温度がちがう感じがある。それが何なのかはっきりとは掴めないのだが、妙に「現実」との対比にこだわって「想像」を考えているような気がするのだ。

想像力の犯罪性(菱川善夫)と言われた前衛短歌から現代短歌は遠くまで来た。作品は現実の殻を破ることができない。日常の小さな事象にしろ、大きな事象にしろ、現実に追随するだけである。言葉で現実を変えるという発想は乏しい。



最後の一文に注目したい。ここでの「現実」というのは、読者としてのわたしが見ている(見うる)世界のことだろう。それはたしかに言葉によって更新されるものである。知らないものは見えないし、世界の切り分け方によって現実の見え方、いやもっとはっきりと「現実」そのものが変わってくる。しかしここには、「現実」はただひとつあるのであって、少なくともそれは1人に1個までなのであって、その「現実」をどれだけ言葉によって豊かなものに変えていけるか、という視線がある。あくまで、リアリティの発生する場所は、「現実」=「いま、わたしが生身の体を置いている、ここ」なのだ。

ここでリアリティということばを出したのは、加藤さんの文章とは全く関係なく、私が今リアリティについて思いを巡らせているからだけであって、実際、この文章には「リアリティ」ということばは一度(フィクションの短歌教室で)しか出てこない。けれども、「言葉で現実を変える」と発するとき、自らがもっともリアリティを感じる世界として現実がえがかれているような気がするのだ。

単に作品世界にリアリティを求めるのではなくて、そのリアリティが現実にも及んで、さらには現実を更新するような、そんなリアリティを求めているようにうつる。それはほとんど洗脳じゃないかなあ、と思う。そういう作品世界のあり方に、良いとも悪いとも言いがたいのだけれども、少なくとも今の私としては、現実は現実としてありながら、それとは別の作品世界がいくつも存在し、そこにひとときおじゃまします、というような楽しみ方のために、リアリティを追求したいなあという気持ちがある。

     *

少しどころか、かなり話が逸れてしまった。(それに加藤さんへの反論のようになってしまったが、そういう意図は全くない。)

加藤さんはここから、「切実さ」という批評が短歌の世界に蔓延していることをなげき、「ふわっとほほえむ顔が見たい」と言う。ここでは、やすたけまりの歌集『ミドリツキノワ』をめぐる小池光の発言が標的となっている。

小池光は『ミドリツキノワ』を読んで、作者を二十代の内向的な女性だと想像した。(略)が、作者は昭和三十六年生まれであり、親の世代だったかと落胆した。(略)むしろここでは、小池の期待を鮮やかに裏切った『ミドリツキノワ』の世界に注目すべきではないか。実年齢と作品世界の年齢の差こそ、想像力の総量ではなかったか。



加藤さんとしては、小池光の「落胆」には批判的なわけだが、翻って、『ミドリツキノワ』の作品世界のリアリティを思っている。確かにそうだろうと思う。しかしここで小池さんは作者の情報を知ってしまったわけで、そうなったときにもともとあったほどのリアリティは得られないかもしれない。

     *

話はふたたび冒頭の時評にもどる。

原則として短歌作品には作者名が求められる。作者名があることで、短歌の読者は作品の背後に一つの身体を見出す(たとえば斎藤茂吉と書いてあれば、斎藤茂吉という身体を見出す)。そしてその身体に作品を帰属させて考える。



ここから吉岡さんは「虚構」という問題が発生する仕組みを説明し、また、この「身体」に作者が縛られてしまうことを危惧する。そこで「短歌さん」が登場するわけだ。

この「短歌」と「作者名」にまつわる話にも、リアリティが関係してくるだろう。

短歌作品は短い。それゆえに作品世界から抜け出しやすいのではないだろうか。入っていくのも一瞬、出ていくのも一瞬。そういう一瞬のリアリティに懸けている。連作や歌集というスタイルも、もちろんある。そうすると話はすこし違ってくるだろうが、大筋では、「作者名」(というよりそこに付随する「作者情報」)という現実世界の強烈なリアリティ生成装置の前に、作品世界の力が失われがち、ということではないだろうか。リアリティというのは相対的なものだ。自分を置きうるいくつもの世界があって、そのうち今どこにいるのが最もそれらしいか、その「それらしさ」がリアリティである。現実世界のリアリティが強まれば、当然、作品世界のリアリティは弱まる。

短歌作品の作品世界をあたかも現実世界と地続きであるかのように演出する方法は、この「作者名」という強烈なリアリティ生成装置を作品世界にも巻き込むことで、一瞬の作品世界のリアリティを長続きさせ、また、強める効果を狙ったものではないだろうか。いや、もっとダイナミックに、「作者名」を作品世界に付加(リアリティ生成装置をずりずりと引きずって作品世界に移動)することによって、現実世界のリアリティを急速に弱め、すなわち作品世界のリアリティを一息に強める、そういう戦略ではなかったのだろうか。これはまこと、「言葉で現実を変える」ということだ。

作品リスト(短歌)

【2018年】
・「かがやける未来ばかりが見えてゐた」24首――連載第2回(『現代短歌』2月号、現代短歌社)
・お散歩のうた1首――特集 現代歌人百人一首(『短歌研究』1月号、短歌研究社)
・編集部選「犬のうた 一〇一首」に1首掲載(『現代短歌』1月号、現代短歌社)


【2017年】
・共作「腸内環境」30首(渡辺松男さんの10首に山下が20首を加えました)(『tanqua franca』、2017.11)
・一人暮らしの4首(『みづもと』、2017.11)
・『温泉』(300首)20首抄—第5回現代短歌社賞次席(『現代短歌』12月号、現代短歌社)
・「右目の視力」24首――連載第1回(『現代短歌』11月号、現代短歌社)
・「梨と水」7首+エッセイ(『現代短歌』10月号、現代短歌社)
・「わたしは歩く」7首(『現代短歌』8月号、現代短歌社)
・「散髪の時間」12首(『現代短歌新聞』7月号、現代短歌社)
・「大きな家」8首(福岡歌会(仮)アンソロジーV、2016.6)
・絵画のための題詠5首――特集「短歌と絵画が出会う時」(『ARTing』第12号、花書院、2017.6)
・「さよならだけが人生だ」3首――特集「競詠 平成生まれの歌人たち」(『梧葉』VoL.53、梧葉出版、2017.4)
・「六地蔵」7首――「いま読みたい旧かな歌人」(『はつか』、2017.1)
・「かたはらにきみを」7首――特集「沖縄を詠む」(『現代短歌』2月号、現代短歌社)
・中本吉昭選「全国秀歌集(福岡県)」に1首掲載(『現代短歌』1月号、現代短歌社)


【2016年】
・『湯』(300首)20首抄――第4回現代短歌社賞次席(『現代短歌』12月号、現代短歌社)
・「温泉」50首(『九大短歌』第四号、2016.10)
・第59回短歌研究新人賞佳作5首掲載(『短歌研究』9月号、短歌研究社)
・「鰊」10首(『かぜまち』、ここのつ歌会、2016.6)
・「湯」8首(福岡歌会(仮)アンソロジーIV、2016.6)
・「親の落としもの」7首――特集「若き才能を感じる歌人たち」(『歌壇』5月号、本阿弥書店)
・「墓とラムネ」30首――第27回歌壇賞候補作品(『歌壇』2月号、本阿弥書店)
・恒成美代子選「全国秀歌集(福岡県)」に1首掲載(『現代短歌』1月号、現代短歌社)


【2015年】
・「空を見てゐる」18首(合同歌集『連嶺』、やまなみ短歌会、2015.12)
・染野太朗選「今年の十首」に1首掲載(『歌壇』12月号、本阿弥書店)
・「交流」30首 (『九大短歌』第三号、2015.10)
・「のぼろ」vol.10「山を詠む」出詠3首 (西日本新聞社、2015.9)
・「銀鱈の皮」30首 (『九大短歌』第二号、2015.6)
・「まだ風の冷たい五月二日に」8首 (福岡歌会(仮)アンソロジーIII、2015.6)
・「みるくぱん」20首――第39回芥火賞受賞作品 (『やまなみ』1月号)


【2014年】
・「マクドナルドでしりとりを」5首 (『九大短歌』創刊号、2014.6)
・「But, I don't have a car now.」10首 (『九大短歌』創刊号、2014.6)
・「ゆつくり歩いてもみた」8首 (福岡歌会(仮)アンソロジーII、2014.6)
・「歳月」7首 (『歌壇』6月号、本阿弥書店)
・「傘は差さずに街を歩いた」7首 (『NHK短歌』3月号、NHK出版)


【2013年】
・「CAMPARIの背中」8首 (福岡歌会(仮)アンソロジー、2013.6)
・「水飲み場」10首 (『現代短歌新聞』4月号、現代短歌社)

日記

山階基トリビュート作品集『湯舟に乗れ!』が届いた。去年注文していたものだが、贈り物のようでうれしい。文庫サイズでコンパクトだけれど、中を開いてみると小説や詩歌のみならず、写真や絵や音楽との織り合わせまであって一度には読み切れないなあ、と思う。少しずつ開いて楽しみたい。

     *

山階さんの歌との出会いはいつなんだろうなあ。『早稲田短歌』に載っていたころに読み始めて、それから総合誌や「あるきだす言葉たち」をたどっていった感じだった。わりあい熱心に、読めるものはなんでも読もうと思って探してきたけれど、今回のこの作品集を読んで、はじめて出会う歌がいくつもあった。あるいは、知っていた歌でもまたちがった歌の世界が開けてくるようで、短歌の味わい方のバリエーションはまだまだ開発途上なのだなあとも思う。(※)

かつて小池光が、歌を〈作る〉ことについて第1歌集『バルサの翼』のあとがきに書いている。いま手元にその実物がないので参照できないのだが、少年のころにバルサ材で作っていた飛行機の話をかたわらに、歌を〈作る〉意思について書いていたと記憶する。その〈作る〉意識がおそらく山階さんにもあって、山階さんの短歌は精緻な木工細工のようで、すごくいとおしい。すべすべしていて、皮膚がよろこぶ感じがある。

今年はもう少しいろんな批評にあたりながら、山階さんの歌について考えていきたいなあと思う。

     *

近頃また、角川『短歌』1月号の藪内さんの時評と、『短歌研究』1月号の吉岡さんの時評を交互に読んでいる。もうちょっと読みながら考えたい。

     *

と思いながら、花山周子さんが『塔』に書いている時評を読んだ。『塔』12月号に掲載もので、ネットでも読めるのがうれしい。(「現代短歌という場所に露呈するもの」

ついさっき(※)のところで「短歌の味わい方のバリエーション」と書いたけれど、それはもしかしたら解釈や批評のバリエーションでもあるのかなあ、と思い直した。言葉にするから、ひとつの批評のフォーマットにのってしまう。そこを脱する方法でもあるのか、と思ったのだ。

それで、ますますとりとめもなくなるのを我慢していただくことにして、歌会に出始めたばかりの頃のことを思い返したい。

     *

いや、歌会に出るよりも先に、歌会を開いていたのだった。見よう見まねでさえない、歌をもって集まってそれを読み合う会なんだろうなあ、くらいの気持ちでなんとなく歌会を始めたのだった。中学高校の国語の授業がひとつ念頭にあったと言えばあった。しかし、それは歌の「表現技巧」や「鑑賞」について授業ではやってたなあ、くらいの記憶で、なにかモデルになるような進行の仕方や中身があったわけではない。

それから、実際に(という言い方も変だけれど、)いわゆる「歌会」にもいくつか参加するようになった。そこで短歌を読むための方法であったり、批評のことばを得ていった。はじめの頃は突飛な(?)読みをして、それはないだろ、と言われることも結構あった。しかしふしぎと回を重ねるごとに、そう言われることは減っていった。そしてその「読みの方法」を実践し、「批評のことば」を使えるようになっていくにつれて、歌が「読めない」と思うことが減っていった。いや、正確にはいったん増えて、それからだんだん減っていった。(フォームチェンジってそういうものだから。)で、それは今ある読みのスタイルのひとつの典型に慣れただけだったんだなあ、と思う。

     *

去年の『現代短歌』だったかな、内山晶太さんが「歌会の罠」という時評を書いていて、その話のことも思い出されるし、あるいは吉岡太朗さんの「紙芝居歌会」「何もしない歌会」という実践も思い返される。

山階基トリビュートという〈場〉が、思いがけず短歌を「読む」ということについていろいろ思わせてくれた。

喜多昭夫『いとしい一日』(2017年)

 8つの章からなる、著者8冊目の歌集である。

   新歓コンパ
ハイボール、とんッと置きたる傍えには羽根つき餃子の羽根のしずけさ

 「金沢大学文藝部外伝」の章より。宴会の一場面だ。厚いジョッキに入った「ハイボール」だろうか、「とんッ」という音がまことふさわしい。(どんッ、ではない。)「ハイボール」という飲みものの軽さもあくまで「とんッ」である。そのちょっとポップで元気な感じと「羽根のしずけさ」が対置される。輪のなかにあってわたしは少し俯瞰の視点で見ているわけだ。意識のクリアな感じが場の雰囲気とずれるようにあって印象的だった。

   シルバーの表紙がやけにハマってた。
染まらない白ってこんなか『さようなら、ギャングたち』読む君の横顔
   NOKKOに乾杯!
レベッカがフレンズ歌う いいぞいいぞ しびれるような月夜の晩だ
城あとの草に寝転び岸上の無援のうたをくちずさみたり

 「さようなら、ギャングたち」(高橋源一郎)、「レベッカ」(のボーカル「NOKKO」)の「フレンズ」、「岸上」大作の「無援のうた」——〈血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする〉だろう——など、時代を象徴するアイテムに、むろん当時の空気感は知らないのだけれど、リアリティを感じてしまう。そのアイテムをうたうこと、うたのことばとして選ぶこと、アイテムを象徴におしとどめずにそこへ何かを言えることにリアリティを感じるのだろう。なにか時代のなかで青年だった一人のひとの声が聞こえてきてやまない。
 一首目、表紙の詞書から「染まらない白」を想定するのだが、結句は「君の横顔」で結ばれる。一首を通過することでわたしは君へたどりつく。二首目、さしはさまれた「いいぞいいぞ」に声を重ねたい。三首目、石川啄木の「不来方の」が下敷きに普遍的なものとしてあって、そこにわたしは「岸上」を持ってくる。

   声変わりする前の僕がカセットテープの中にいた。
タイムカプセルを開けたら僕あてにいきなり「生きてるかな?」って訊くな

     *

 あんまり歌を挙げるともったいないような気がしたけれど、それは1つ1つの章に標的となるような誰かが居て、そこに向かってまっすぐに思いが向けられるかもしれない。先の「金沢大学文藝部外伝」であれば、あのころのわたしへ向けて歌われる。次の章「千里浜なう」の標的は「君」だ。

   ユウコ(ありふれた名だ)
砂浜に君の名前を書きたればキモイからやめろやと言われき
   好きなんだ、好きなんだよお(と夕日に向かって叫ぶ)
帆のような横顔だった ひと呼吸置くようにして「ごめん」と言った

 一首目、「キモイからやめろや」の「や」は「ほんとうにそうだった」のだろうし、それを「書きたれば」と「言われき」で挟み込む形をとっている。強烈な直接体験の過去だなあ、と思う。全体に物語や芝居のにおいが強いのだけれど、それでも、と立ち止まってしまう。二首目もそうだ。こっちまで苦しくなる。

 次の章へいく。「リュウへの手紙」、標的は岡井隆だ(と、ひとたびは思ったが)。

歌は龍 どこまでも昇れ すめらぎの岡井隆歌碑除幕式典

 左端に章題の書かれた扉の中央に据えられた一首である。岡井の「ヘイ龍」の一首が念頭にあるのだろうし、そもそもこの「龍」は「隆(=りゅう)」である。ところで下の句の「岡井隆歌碑除幕式典」は字面もそうだが、「すめらぎの」という枕詞からの接続というのもあって荘厳な感じがありながら、しかし、音読してきもちがいい。「歌は龍」「どこまでも昇れ」の息の短さに対して、「すめらぎの」で大きく息を吸って吐き出された長いことば、のようにうつるからだろうか。
 この章、岡井隆にどっぷりいくかと思えば、そういうわけでもない。岡井隆をとっかかりにして、もうちょっと広く、いろいろの事象が歌われている。さらに次の章、「鳥居ならここにゐます。」の鳥居はもちろん、ちょうど「現代短歌」の二人五十首で岡井とタッグを組んだ「鳥居」である。「岡井」論や「鳥居」論ではないが、かたわらに「岡井」があり、「鳥居」があり、という温度ですすんでいく。

     *

 あと三首だけ、歌を読んで終わりにする。

波寄せて前ゆく波を越えざりき襟立てゆかん冬の渚を
ねじをゆるめればくるくるたちあがりたちあがりくるねじというもの
はつものの梨の歯ざわり 湧き水のようにはじまる秋の一日は

 一首目、以前「やまなみ」に書いたものを少し引用する。ある種のポーズなのだが、気分がよく出ていると思う。

波は次から次に岸に寄せるけれど、そのどの波も前をいく波を追い越せない、という上の句の把握には説得力があるし、なにか先蹤につづこうと自らを鼓舞するような力強さが一首を貫いている。(中略)黒瀬はいつだったか角川「短歌」の巻頭エッセイでもこの歌(注:春日井建の「今に今を重ぬるほかの生を知らず今わが視野の潮(うしほ)しろがね」『友の書』)を引いていたが、喜多も同じ春日井門下の一人である。今という一瞬に次の一瞬を重ねるほかない、という感慨はそのまま先の「波寄せて前ゆく波を越えざりき」につながっているようだ。(「やまなみ」2017年1月号より)


 二首目は永井陽子の「アンダルシアのひまわり」を思い出した。上の句では具体であったことが、語順を変えながら下の句では抽象になっていく。ぐるぐると思考のらせんを見るようでもある。
 三首目、はつものの梨であるから、それこそ水の湧くようなシャキっとした食感、歯触りが印象的であったのだろう。その印象が、そのまま下の句へつながっていく。「はつものの梨の歯ざわり」とア段の頭韻ですべりだした歌がいったんは転じるものの、ふたたび「はつもの」「歯ざわり」の「は」を引き受けて「はじまる秋の一日」と収まっていく。



※『いとしい一日』の歌の引用はすべて歌集『いとしい一日』(2017年、私家版)に依ります。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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