凡フライ日記

山下翔と短歌

現代の歌人(昭和50年生まれ)

 新鋭短歌シリーズの第1弾3冊のひとつに『提案前夜』がある。仕事を詠った歌のなかでも、「食べ物」がからんでくる歌に、堀合昇平を感じる。

・カップ麺啜れば骨の芯までも痺れるだめだもっと喰いたい
・スパイシーチキンにしゃぶりつくまでの葛藤 帰り道は長くて
・焼鳥の串ほぐしつつ思い出すこころのもんだいのかわしかた
・冷えたゼリーに桃を掬えば知るだろうつまりはイメージの問題なんだ
・ポークフランク頬張りながら歩く坂道の途中でまた日が変わる

 ジャンクな食べ物の歌を引いた(ゼリーは違う、かな)。仕事上のあれやこれやがばたばたしてくると、どうしても生活が後回しになる。けれども食べることが、生活と仕事をつないでいる。

 同じく新鋭短歌シリーズから『やさしいぴあの』は嶋田さくらこの第1歌集。目映いほどの、1冊の世界に魅了される。

・魔法瓶に一晩泊まってゆくといい 銀色のお湯になれる幸福
・ぴあのぴあのいつもうれしい音がするようにわたしを鳴らしてほしい
・だんごむし 生きているのがつらかった時代もあった 丸まっている
・たのしいねたのしいねって誰かから奪うことしかできない愛だ
・居酒屋で注文をする役 君はビールをおいしそうに飲む役

 さみしいことを、ことさら悲観せずに提示してみせるのが上手い。そして必ず、そこに小さな「幸福」が貼りついていることを感じさせてくれる。

 生沼義朗は短歌人、[sai]所属。まだ歌集を読んだことがないので、『短歌』(KADOKAWA/2014.8)から2首引く。

・冷蔵庫に豆富半丁腐らせて妻に知られぬように捨てたり
・言葉が先かこころが先かわからぬに卵を黄身と白身に分ける

 さすがにこれだけでは何も言えないが、自分でもまだ整理のつかないようなことへの慎重な視線を感じる。ばっさり言ってしまわずに、言うこと自体をもおそれながら、でも、見えている、ということを切り捨てまいとする姿勢が見える。

 いま「念力家族」のドラマ化で話題の笹公人。歌集に『抒情の奇妙な冒険』がある。このタイトルからして何かありそうな感じがする。

・泣くもんか 砂場に半分埋もれてる科学特捜隊のヘルメット
・陽だまりの春の廊下でふりむけばタイム・リープの少女に逢える
・貸した辞書の隠語にマーカー塗られいてやぶれかぶれの夏の放課後
・ドンブリを呑むギャル曽根を見つめてる戦争孤児の無水の瞳
・白銀(しろがね)の霊界電話の受話器から鹿鳴館の華やぎ漏れる

 少し薄気味悪い、短調の世界を感じる。それぞれの歌に強烈なアイテムがあって、それは異世界のことのようなのだけれど、ときどき現実世界にも顔を出す、そこあたりを捉えているように思う。

 永田紅の子育ての歌が好きだ。自然な口語というか呼びかけが、歌のリズムをつくっている。

・眠いのに眠れず愚図る夕暮れをわかるよなあと転がしておく
・定員にくいこむことが人生のはじまりこんな零歳のいまから
・逆算をすればさびしくなりゆくをやぶらぬようにレタスの葉をむく
・話せないだけでいろんなことがもう分かっているのだよねえきみは
・クレヨンの絵や工作を持ちかえり我が家も子供の居る家になる

 1首目、『短歌』(KADOKAWA/2014.8)から。「わかるよなあ」というぼやき、「転がしておく」という動作に、自然な感じを受ける。2首目から4首目はいずれも『短歌研究』の連載から引いた。「こんな零歳のいまから」に河野裕子の口調を感じる。5首目は『歌壇』(2015.5)から。子供が居ればそれだけで「子供の居る家」であるはずだが、「子供が居ると、家の中がこんなふうになるよねえ」という「(いわゆる)子供の居る家」にだんだんなっていく、ということだろう。

 日常の静かな歌のなかに、さりげなく不気味な、暗い感じがただよっている、という印象をもった。後藤由紀恵の歌である。

・雨後の夜のあおき時間にだれを呼ぶ浜をゆきかう声の数々
     「百年先も」『朝日新聞(2013.6.11)夕刊』
・むらさきの輪ゴムかけられ閉店へ向けて値下げの続くコロッケ
     「夏の生活」『短歌』2013.10
・辿りつく岸のあらねば学生にまざりて食べる山菜うどん
     「れんげ咲く日」『短歌研究』2014.6
・襟元に襟章を留めてゆく生のおとうとの告ぐ春の転勤
     「春の転勤」『短歌』2014.6
・ちちははの庭に今年も咲くだろう椿の根方に埋めたてのひら
     (てのひらの歌・新作3首)『短歌研究』2015.4

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第9回 頭からかかる

 前回は、三句のオノマトペが上句・下句のそれぞれにかかって一首の詩情を豊かにしている例をみたが、もう少しラフな形のものを今回は二首とりあげる。

・近づいてくる近づいてくる神輿はるかなるあの夏の性愛
     小島なお「神輿」

 近づいて/くる 近づいて/くる 神輿、と定型の力学にそって読むのがいいように思う。近づいてくる、と同時に、何か強い衝動が「くる」、ということが強調されるようだ。
 お祭りの風景の一場面、「近づいてくる」神輿を見ながら、その勢いに「はるかなるあの夏の性愛」を思い起こしている。そしてそれもまた、「近づいて/くる」のだ。同じ作者に「噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし」という有名な歌があるので、そのことを思ってしまう。
 この歌については、以前にも九大短歌会のブログで触れたことがあって(あの夏)、似たようなことを書いている。
 そのときはおそらく、頭から二つのものへかかっていくやり方を、とくべつ意識してはいなかったと思うが、たとえば次の歌にも同じような構造がある。

・あざやかに季節は移り暗殺もやむなしといふ論の緻密さ
     大口玲子「寒気殺気」

 どういう論理でたどりついた結論なのか、「暗殺もやむなし」ということになってしまった。巧みに論を組み立てて常識をひっくりかえしてしまう手つき、そのあざやかさに困惑している。焦りを感じている。
 季節も、気づいたときにはすっかり移りかわっていて、もうもとへは戻れない。
 あざやかに季節が移り、すなわちそれだけの期間があり、そしてすっかり局面が変わってしまった。次の段階に、突入してしまった。もうやり直すことのできない議論、「暗殺もやむなし」という結果だけが残って、そうこうしているうちにたとえばことは実行され、そこからさらに展開していくだろう。

 二首ともに、スリルを感じた歌だった。

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第8回 三句でつなぐ

・火に炙る魚うらがへしじぷじぷと西日があたる背中が暑し
     小島ゆかり『憂春』

 夕食のしたくだろうか、厨にたつ人の姿が見える。三句の<じぷじぷと>が、調理すれる側・する側の双方にかかっている。つまり、魚をうらがえしたところ、よく焼けて表面がじぷじぷと音を立てている。油がはねているかもしれない。一方で、そうやって調理しているわたしの背中にも西日があたっていて、全く魚と同じようだ、という場面なのだ。
 わたしの背中が<じぷじぷと>というのは少し大げさに感じるかもしれないが、そのくらいのほうが、面白みがあっていい塩梅になっている。

・てのひらにてのひらをおくほつほつと小さなほのおともれば眠る
     東直子『春原さんのリコーダー』
・ちよつと潤んだ夏の月出てまるまると太つた赤子抱いて出る母
     馬場あき子『あかゑあをゑ』

 同じように、三句目に<ほつほつと><まるまると>というオノマトペがあって、それが上の句・下の句のどちらにもかかっている。
 一首目、「てのひらにてのひらをおく」その感じをほつほつと、と言っている。やさしい手の置き方だ。そして手と手を重ねたことによって生まれる「小さなほのお」、その灯るさまもまた、ほつほつと、なのだ。二人に、静かな夜の時間が流れている。
 二首目、大きな夏の月、ちょっと潤んでいて艶がある。それを大胆に、まるまると、と述べながら、それが「太つた赤子」にかかっていく。そこまで読んでみて初句にかえると、「ちよつと潤んだ」が赤子にも母にもそれを眺めているひとにも、あるいは夏の、そこの風景そのものにもかかっているようにみえる。

・死後生殖、の果てに広がるびらびらの浜昼顔へ細き雨ふる
     大森静佳「顔を産む」

 初出は『短歌研究』2014年8月号。同じ一連に、「羊水はこの世かこの世の外なのか月の臭いがひどく酸っぱい」という歌があって、先に挙げた馬場の歌と重なる。
 死後生殖、の果てに広がるものは何だろうか、よくわからないけれどこう、びらびらとした襞のようなイメージがあって、それをつかもうとしている姿が浮かんでくる。そこから一転、<びらびらの>はごく自然に「浜昼顔」へかかって、風景は現実にひきもどされる。

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第7回 枕詞

 手紙の書き出しには、季節の挨拶をもってくることが多い。何を書くにしてもそうだが書き出し、というのが一番難しくて、書き出すことさえできればあとはその流れで書けるのに、と思いながらうんうん唸って原稿用紙に向かっていた小学生の頃の、作文の時間などを思い出す。
 季節の挨拶、という一つの形式が、手紙を「書き出させる」役割を持っているのだろう、と思う。それに似た、という風に個人的にはそう思っているものとして、短歌における<枕詞>がある。枕詞は基本的に5音で、ある特定のいくつかの言葉を導く。

・あからひく朝青龍(あさしやうりゆう)のかなしみはモンゴル語にてその身に満つや
     大松達知『ゆりかごのうた』

 あからひく、が枕詞にあたる。赤みを帯びるという意味から、「朝」「日」「肌」などにかかるとされる。ここでは「朝青龍」(の朝)にかかっているわけだが、言ってみれば、こういう使い方もアリなのだ。
 朝青龍はモンゴル出身の相撲取り。日本に暮らし、日本で活躍しているわけで、もちろん日本語も話す。けれども言葉というのは文化や風土と切り離せないところがあって、育った国の言葉、というのがそのまま感じ方につながっていく。
 たとえば日本では小学校高学年から英語を習って、高校、大学までずっと英語をやり続けるけれども、それでも多くの人は、日本語で感じ、日本語で発想する。それと同じことだ。

・あかねさすIKEAへゆこうふたりして家具を棺のように運ぼう
     岡野大嗣『サイレンと犀』

 あかねさす、は茜色に美しくかがやくという意味から、「紫」「昼」「日」「照る」「月」「君」などにかかるとされる枕詞。イメージは先のあからひくに近いのだが、美しいとか、かがやくといった感じが「IKEA」にかかっている。
 つまり単に、照明によってあかるくなっているだけではなく、そこには家具があって、その先にはそれぞれの人の暮らしがある。暮らしてゆこうとする明るさ、美しさ、かがやかしさがあるのだ。
 それが一転、「棺のように運ぼう」とくる。この結句が、一首に緊張感を生んでいる。

・ゆうぐれが去るのを待ってぬばたまの洗濯槽に魚をあらう
     吉岡太朗『ひだりききの機械』

 「ぬばたまの」は、「黒」「髪」「夜」などにかかる枕詞だ。そこからさらに、「一夜」「昨夜」「今宵」など夜をあらわす言葉、あるいは転じて「妹」「夢」「月」などにもかかるとされる。ぬばたま(=射干玉)とは草の実のことで、それが黒くて丸いことからきている。
 この歌の場合、「ゆうぐれが去るのを待って」が「ぬばたまの」を導いている感じ、もある。つまり全体的に夜の、あるいは暗いイメージがあって、夜になったら洗濯槽で魚をあらう、という印象的な動きがあらわれる。何か、見られてはまずいことをしているような雰囲気があって、けれども決してふざけてやっているわけではない、という落ちつきがみえる。

・いつまでも裏返されぬぬばたまのオセロの駒のあぱるとへいと
     黒瀬珂瀾『空庭』

 ぬばたまの(黒の)オセロの駒、という感じだろう。つまり、オセロ盤の上で展開される攻防――白と黒の鬩ぎあい――に世界の情勢を重ねてみているのだ。アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国の有色人種差別政策。1991年に法的には全廃されたが、「いつまでも裏返されぬ」まま白優勢が続いている状況、それを「あぱるとへいと」という表記に託したのだ。
 もちろんその反転だって、ある。
 いくつもの重層的なイメージが不穏な感じを漂わせている一首だ。そしてそれは、枕詞そのものが、用いられることによって喚起するイメージを濃厚にしてきた感じと重なってもみえてくる。

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第6回 遠くをおもう2

 ごく近いものにたとえば触れながら、遠くのものを「おもう」方法を考えていた。今回は栗木京子の『しらまゆみ』から3首ひろってみる。

・無塩バター四角く冷えてゐる夜に離れて暮らす息子をおもふ

 これは直接手を触れているわけではない。けれども「無塩バター」は手に届くところにある。無塩の後ろに無縁を感じるのは大げさだろうか。そこまではいかずとも、「無塩」であることの味気なさとか、物足りなさのようなものが伝わってくる。互いに触れることのできないもの同士のわたしと「無塩バター」。それがわたしと「離れて暮らす息子」に重なる。

・生牡蠣を大根おろしに洗ひつつ処女にて死にしヒロインおもふ

 生牡蠣にグロテスクさがある。大根おろしで洗うのは、そういうやり方があったように思う。汚れをとるためだったかな、定かではない。ともかく特に突飛なことをやっているわけではないのだが、字面だけ追っていると、穏やかではない光景のように見えてくる。そしてその勢いのまま、「処女」のまま「死」んだ「ヒロイン」がでてくる。上の句の危うさを「処女」が引き継いでいるのだ。そしてその「処女」もまた、ひとつの届かなさのように思う。

・紅茶積むまま難破せし船おもふティーバッグの糸引き上げながら

 上の句と下の句の倒置によって、まず、<いま、ここ、でない>が提示されている。そこからぐーっと<いま、ここ>へ引き戻されるのだが、その感じと、「ティーバッグの糸」を「引き上げ」る動きが少し重なる。とは言え、下の句の動作が呼び起こすのはやはり、難破した船を引き上げる仕草そのものだろう。小さなティーカップの前では、神の手にもなるのだ。<いま、ここ>が<いま、ここ、でない>とはっきり一致するかのような錯覚である。

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