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田口綾子『かざぐるま』(2018年)

読みはじめて、ややもどかしい気持ちで読み進めたのだが、しだいに楽しくなってきて、そのうちかなしくなってきて、それが交互に訪れながら、さいごは楽しく読み終わった歌集だった。田口綾子の第1歌集である。

     *

深皿を何度拭いてもとどまれる水滴、これは誰のさびしさ

一読「ある、ある」と思ったのだが(なんでそう思ったのだろう)、「何度拭いても」「水滴」がのこることなんてあるだろうか、と、いま立ち止まっている。洗ったあとの深皿を拭いているのだと思う。ほかのものを拭いていって最後に残った深皿だろう(この歌のひとつ前に、箸を洗う歌がある)。布巾もずいぶん湿っている。拭いても拭いても水滴をぬぐいきれない。これならば、「ある、ある」と頷ける。布巾をかえるか、ほどほどのところで伏せてかわかすかすればいい。

ただ、そうではないんじゃないか、とも思う。どうだろう。この人、泣いているんじゃないかなあ。それで、「これは誰のさびしさ」と問うている。なんで泣いているんだろう、と。泣いていることそのものを問う気持ちも、なんで泣くのが私なんだろうと思う気持ちも、両方あって、この水滴が拭いがたくある。この、ここにある、「これは誰のさびしさ」という眼差しは、この歌集全体を貫くひとつの鋭い視線である。

     *

正月と呼びえぬ年の初めにも駅伝はあり皆で眺めつ
洗はずに持ち帰る服ちちははの晩年に食ひこみすぎぬやう
それぞれの午後を過ごして常総学院(じやうそう)が勝ちさうなときは居間に集まる

実家の風景である。1首目は祖父の喪に際して。ひとつひとつの家の事情とはかかわりなく、正月はやってくる。正月が来れば、駅伝があり、特番があり、初売りがある。世間はなにひとつ変わらない。滞りなく、時間が進んでいく。それがいいことかそうでないか。「皆で眺めつ」は、その判断ではなく、光景を映す。時間を、関係を映す。3首目も同じような場面である。こちらは夏の甲子園か。「常総学院」に引き寄せられることへの、つまりは「ふるさと」とか「家」とかそういうものへの視線がある。このひとつ前が、2首目のうたである。「ただいま」と言って「おかへり」と迎えられる帰省であり、土地と自らとを完全には引き離しがたいのだが、それでも「食ひこみすぎぬやう」という意識がずっとある。

そして、次の歌。

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

この自棄は、「はいはい、わかったわかった」という自棄にはちがいなのだが、このあたりからユーモアの方へと舵を切ったような歌が目立ってくる。そこにはユーモアに転じるよりほかない悲しみがどうしても滲む。続く「ぐでたま」という連作もまた然りである。以降、かなしみとおかしみがどうしようもなく交互に押し寄せる。あっちからもこっちからもどんどん球が飛んでくるようで、大きく揺さぶられる。体勢をくずす。夢中になって読んだ。

     *

非常勤講師としての日々もまた、歌集のなかを流れる時間の一つである。国語の先生である。古典・古語にまつわるいろいろのエピソードがうたわれる。

「茨城」の漢字も書けぬど阿呆は寄るな触るなこつちに来るな

「今日の男子校」という一連から引いた。この去なし方は妙にリアルである。こういう距離のとり方、関わり方がどの歌からも伝わってくる。エピソードのひとつひとつが、(当然だが)単なるネタにとどまらない。おもしろいでは済ますことができない、現場の空気を湛えたものになっている。

択ぶとは 水にひらける半身を消たれつつなほ水上花火
旅先にふたりでひとつのトランクを引きゆくやうに君と暮らさむ

そしてきみとの暮らしが始まる。選択というのは常に、「何かを択ぶこと」と「何かを択ばないこと」とを同時に行うことである。択ばなかった何かが、水面の下にはある。見えるのは水面の上の花火だけであったとしても、だ。そういう選択のひとつひとつが、その都度あって、それが積み重なって、後から振り返ったときに一本の線のように映るかもしれない。でもそれは、決してはじめからあった線ではない。〈振り向く〉ことが線を見せるのだ。その歩みに、「ふたりでひとつのトランク」が加わった。

ひとつひとつの歌についても、連作についても、歌集の構成についても、まだまだ語るべきことばかりの歌集なのだが、まずはこのあたりまでにする。最後の連作「闇鍋記」は笑い転げながら読んだ。



*歌の引用はすべて歌集『かざぐるま』(2018年、短歌研究社)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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