本多真弓『猫は踏まずに』(2017年)

全体にとても安心感のある歌集である。安心感、というのは、いろいろなことに因ると思うが、一つは表現のことに気をとられずに作品世界に入っていけた、というところにあり、もう一つは短歌表現を使いこなすとか、表現の変化で遊んでいるとか、そういう余裕のようなものを感じたからだろう。相性、というのもあるかもしれない。

けやき通りと名づけるために植ゑられた欅はいいなともだちがゐて
goと打てば〈ご多用中恐縮ですがどうぞよろしくお願いします。〉と出てくるわれのパソコン

1首目、そうか名前が先にあってそれから木が植えられるのか、と気づかされた。むろん、そうでないところもあるだろうが、都市計画の側面を思えば、名が先で、その計画に沿って街路樹が植えられていく、というのはすっと納得できる。いわばそういうひとつの発見を経由しながら、「欅はいいなともだちがゐて」というふうに歌は収束する。「けやき通り」に並ぶ木はみな欅なのであって、そこにはたしかに同期とか同窓生とかそういう一体感が生じるのかもしれない。ほんとうのところはわからないが、「ともだちがゐて」「いいな」といううたい口からは、ともだちがいない〈私〉の姿がほんのり感じられる。それをいやだ、どうにかしたい、とまでは思っていないふうでもある。

2首目、パソコンの変換にまつわる歌である。材としてはありふれたものであるが、なかなか機能的なパソコンに仕上がっているようだ。goは「ご」を出力するわけだが、定型文として「ご多用中恐縮ですがどうぞよろしくお願いします。」という一文が瞬時に表示されるようである。ふだんからよく使うお決まりのフレーズなのだろう。おもしろくもあり、すこしかなしくもある。しかしキーを打つ手間は省けるのだから、時間短縮にはなる。go、の先に何を入力したかったかによっては、これは思わぬ結果であったかもしれぬ。「ご飯なんにしよう」と打ちたかったのかもしれない。「ごめん、ちょっと遅れる」だったか、とも想像する。そうなるとどこか脱力感のようなものが浮かんでくる。字余りは気にならない。むしろ、定型を意識して早口に読もうとすることで、いかにもすらすらでてきた定型文、という感じが強調されて、内容にマッチしているのではないか。

一首の言っていることはわずかであるが、いずれも、そこからいろいろと想像したくなるような歌である。こちらにその想像を無理強いするような圧力はないのだが、分け入ってみると存外楽しい、そういうところに安心感をおぼえたのかもしれない。

     *

草臥れて立ち上がれない夜もある会社近くのドトールの隅

あるある、と思う。どかっと座ってもう動きたくない。立ち上がって帰る気力がない。体の疲労のこともあれば、何かが終わったことによる安堵のこともある。その内面を掘り下げていく、という歌い方もあるけれど、ここではあえて表面的な描写にとどめている。そのことで読者は風景に立ち入ることができるし、あるいは自分をそこに座らせてみることもできる。

このあひだきみにもらつた夕焼けがからだのなかにひろがるよ昼間にも

こういう、先の一首に比べればいくらか抽象的な歌もある。「きみにもらつた夕焼け」とはなんだろうか。きみと一緒に見た夕焼け、きみが連れていって見せてくれた夕焼け、きみが写真を撮って送ってくれた夕焼け、と想像してみる。いずれも具体的な場面である。そうでない、抽象的な「もらった」「夕焼け」をイメージしてみることもできるだろう。いずれにしてもこの歌の眼目は、夕方ではない「昼間にも」、その光景がからだのなかに広がってやまない、というところであって、この「昼間にも」というだめ押しのような一言が字余りをもって結句に置かれることで、臨場感がうまれてくる。

ともだちのこどもがそこにゐるときはさはつてもいいともだちのおなか

「ともだちのおなか」を触ってもいいか、触ってはいけないか、とういうのはどこかに決まりがあるわけでは(たぶん)ないけれど、何となく、触ってはいけない、ということになっている。子どもの頃はそうでもなかったかもしれない。〈私〉という意識はあいまいで、〈私の身体〉の輪郭はおぼろで、(ものにしてもひとにしても)他との距離はすごく近い。しかし次第に〈私〉というものが意識され、他との違いから〈私〉を立ち上げていくうちに、人との身体的な距離はどんどん遠ざかっていく。そういうわけで、知らず知らずのうちに、「ともだちのおなか」は「触ってはいけないもの」になってしまうのだ。ただ、例外というのもあって、「そこ」というのはおなかの中だと思うが、つまり妊娠中であれば、触ってもいいということのようである。それだって誰かから許可がおりる、という種類のものではないのだが。でも、何か暗黙の了解とか、状況が許す、みたいなことってふだんの生活のなかにはたくさんあって、その一場面として、この歌があるのだろうと思う。全部ひらがなで書かれているところも、メタ的な意識が現れているようだ。

三年ぶりに家にかへれば父親はおののののろとうがひしてをり

三年ぶり、という具体的な数字が一首を読み終わったときには意味をもって迫ってくる一首である。父親のうがいの音に耳がむく、あるいは、その変化(または変わらなさ)に気づく、そのための三年間、というふうに思われてくる。「おののののろ」という擬音語も絶妙だ。喉で水を転がすところを言い得ているように思う。この歌はこの擬音語が極らないと、歌としてぼんやりしてしまう。

     *

ここまでとりとめもなく書いてきたが、どの一首をとっても、とりとめもなく何かを書けるような、だれかと話せるような感じがあるのだろう。いわゆる一首の独立性と言ってもいいが、物語がうまいこと排除されていると言ってもいい。全体を通底するトーンのようなものはありながら、いい具合に筋がとってある。大きな骨が抜いてあって食べやすくなった魚のようである。

ふれられてひかるからだがあるころにわたしあなたに出会ひたかつた
はじまりに光があつてさよならはいつもちひさく照らされてゐた
待つことも待たるることもなき春は水族館にみづを見にゆく
きみの目を見たことのある目をあらふプールサイドに夕景がくる

恋のうたである。身もこころも一生にひとつ、あのときこうだったらとかあれが今ならこうするのにとか、何ひとつかなわない。「ふれられてひかるからだがあるころ」は(おそらく)もう来ないし、逆に今のこのからだも刻々と変化していく。だからこそ、忘れてしまってなかったことにしたいことさえも愛おしいし、それはなかったことにはならないし、いまのわたしのどこかにひっそりと息づいているものだ。「はじまりに光があつて」「みづを見にゆく」から開かれる世界観に独特がある。4首目、「きみの目を見たことのある」と改めて口に出されることで、その「きみの目」がいま眼前にはないことが強調される。目をあらっても、きみの目を見なかったことにはならない。プールサイドの夕景がそのことを包んでいる。



*歌の引用はすべて歌集『猫は踏まずに』(六花書林、2017年)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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