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川野里子『硝子の島』(2017年)

今期もっとも力のある連作になるのではないか、と「Place to be」28首を読みながら思った。角川「短歌」4月号の巻頭作品である。連作の筋は一本ありながら、さまざまな〈世界〉を行き来し、手繰り寄せして連作空間が膨張していく。底なしの一連なのだ。もっとも、何かひとつのテーマをぐりぐり掘り進めたり、あるいは、ひとつのモチーフとからめながら、つまりその視点を得たことによって日常の空間をある意味で歪ませながら連作を展開していく方法は川野のひとつの方法なのだと、そういうことを思いながらこの第五歌集『硝子の島』を読んだ。

ぬりかべのどまんなかあたり穴あけて息子怒りぬぬりかべは我
営業マンの息子のズボンの皺深し石抱くやうに正座して来し

息子を読んだうたを2つ引いた。「ぬりかべ」というと『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪であるが、「ぬりかべ」というものにずぶずぶ入っていって一首が成っている。息子の怒りが、ストレートに「我」を貫いていく。スピーディーに展開される一首は四句切れで再び立ち上げられて、力のこもった声となった。この次の歌に〈老い老いて次第に軽くなる母が一反木綿となりて覆ひ来〉がある。これも同漫画に出てくる妖怪である。『ゲゲゲの鬼太郎』の〈世界〉と混じり合うことで、そのイメージを援用するにとどまらず、思わぬ鉱脈に行き当たるようなところがある。

1首目が隠喩ならば、2首目は直喩である。「石抱くやうに」が拷問めいていて痛々しい。ひとつ前の歌に〈あさがほの仕事は花をひらくこと出勤するがにつぎつぎ咲(ひら)く〉とある。このうたにもある痛ましさがあって、先の一首がじっとし続ける苦痛であれば、こちらには絶えずひらき続ける苦痛がある。

     *

ある時期に刊行された歌集には共通のことなのだが(そしてそれは奇妙な読書体験でもあるのだが)、この歌集も東日本大震災を含んでいる。海外でその報せを得たようだ。

列島に日本人のみ残るといふあの舟に吾は帰るべきなり
はなみづき今年希有なる美しさ爆発しつつ美しさ咲く
風あやふく光あやふく水あやふき日本に燕よ帰りくるるか
防護服うすがみに命つつまれて働く人あり百合の白さに

海外にいたからこその「日本人のみ残るといふ」というこころだろう。1首目の「日本人のみ」というのは当たり前だけれども、当たり前ではない。日本にやってきている外国人であれば、祖国に帰る(避難する)こともできるだろう。日本人であっても海外に避難することはできる。できるとしても、それは「帰る」ではない。

2〜4首目は原発事故が念頭にあるものと思われる。「爆発しつつ」の「爆発」は「美しさ」であり「はなみづき」であるのだが、しかしそのさまを「爆発」という語彙をあてて述べるところに、原発のことがある。結句の「美しさ咲く」という表現は奇妙であるということを越して、ある力を帯びている。3首目、抽象化・韻律化することによってただよう「あやふさ」を描写しつつ、そこにくっきりと形ある「燕」をうたっている。「帰りくるるか」という呼びかけは素朴にひびきながら、諦念のようなものもすけて見えるようだ。4首目、「防護服」の白さを百合の白さになぞらえる。グロテスクな感じもある。(余談だが、この震災以後(かどうかは定かではないけれど)、「防護服」というのがひとつの詩語になってしまったようにわたしには感じられて、その事態に対する恐れのようなものを思っている。)

     *

テーマの上で「Place to be」へとつながっていくのは、次のような、母をうたった歌群である。

老母の手を離してはならず離したき心あるゆゑ離してはならず
さうめん流しひゃーとさうめん流れゆきわれとわが母取り残されぬ
さびしさは薬で癒やすことできず七種類飲んで母寂しがる
わが裡のしづかなる津波てんでんこおかあさんごめん、手を離します
                 (「てんでんこ」には傍点(・)が付されています。)

母をとるか、自分をとるか。介護のことはどちらかが力尽きるまでついてまわる。「手を離す」というのは「手放す」という語を呼び込みながら、同時に、津波で生の側と死の側を分けた最後のところを連想させ、またそのイメージを展開させて4首目のような歌に結晶する。歌集のなかには〈手を、離してしまつた悔恨はいくたび迫らむ津波ののちを〉という歌もある。

わが家がいいやつぱりわが家が一番、と言はなくなりぬ老母の何かが
ベッドがひとつ便器がひとつ陽当たりの良き部屋ここに母は捨つべし
椅子、簞笥、カレンダー、湯飲み漂流す母が生活あきらめし家に
母よりわれがわれよりは子が生き残るべきなり白い椿は咲きて

家で生活する(させる)ことをついに断念した。そのことを自省する。一方的に自らを責めるのではなく、そこに横たわる大きな筋のようなものに触れ、切り込むような気負いがある。ぐるぐると思考は止まず、良い悪いとはちがうところでこの状況を捉えようとしている。そのときに、川野の方法が生きてくる。なにかと取り合わせ、混じり合いながらひとつの描き方では取りこぼしてしまいそうな側面をじっとりと絞り出していく。この歌集は、繰り返し読み、検討したいと思う。1首のことから連作、歌集ということへの方法が詰まっているように感じている。

   *

「Ⅲ 河童抄」はそのとおり河童の章である。その最後の連作「河童日和」から2首を引く。

広辞苑は河童を詳述してやまず身に鱗あり毛髪少なく云々
水掻きの名残ある手をあたらしい手のやうにひらく湯船のなかに

河童を見つめようとして広辞苑をひいてみる。すると河童について詳述してある。こんなにも書いてあるのか、と、その現場感のある歌である。具体的にその詳述の雰囲気がわかるように抄出されてあり、マスコット的な河童とはちがう世界に分け入っていくことが示唆される。河童というひとつのモチーフを通して、〈私〉のなかの枠組みが解体され、更新されていく。「あたらしい手のやうにひらく」という動作には、そのことへの畏れと歓びがしずかに宿っている。



*歌の引用はすべて歌集『硝子の島』(短歌研究社、2017年)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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