吉川宏志『夜光』(2000年)

吉川宏志のうたの、1首としての緊密さというか、端整な感じに折々おどろくことがあるが、歌集としてまとまってみるとその凄みはなおさらに迫ってくる。

泣きやまぬ赤子を抱けり秋の夜のヘッドフォンからZARD(ザード)が流れ
その程度で若いと言うのか 朝雲は鋏で切ったようにひろがる

これらの歌がその「緊密」や「端整」や「凄み」を言うのに最適かどうかはおいておくとして、まず気になった歌である。

1首目、ZARD……ZARDかぁ、と思う。わたし自身はZARDを特別熱心に聞いていたわけではないが、なにかひとつの時代のムードみたいなものがある。あるいはそこに若さを感じるのかもしれない。「赤子を抱く」ことと「ZARDを聴く」ことがこの1首のなかでは両立していて、しかもヘッドフォン。時代と書いたけれど、それよりもむしろ個人史的な一場面としてとくに象徴的である。この固有名詞の選択が1首の緊張感を保っている。2首目は「鋏で切ったように」という直喩が吉川らしい。もとは大きな一枚の雲であったのだろうか。「鋏」であるから、手でちぎったのとはちがう、ある部分には直線的なところがあるのだ。初二句の憤りを引き取りながら、しかしその気分がどっぷり投影されている感じではない。どこか涼しさに転じている。

     *

アンソロジーなどですでによく知られた歌に再び出会う体験も、新刊ではない歌集を読むたのしみではある。とくに歌集のどこにあるか、あるいはどんな連作のなかの1首なのかは、アンソロジーや評論に引用される形ではなかなか知り得ない。もちろん初出でも出会っていない。そのため1首の印象が大きく変わることもある。

卓上の本を夜更けに読みはじめ妻の挟みし栞を越えつ
しらさぎが春の泥から脚を抜くしずかな力に別れゆきたり
抱いていた子どもを置けば足が生え落葉の道を駆けてゆくなり
鳳仙花の種で子どもを遊ばせて父はさびしい庭でしかない

視点、発見、把握の歌と言われるだろうか。「妻の挟みし栞を越えつ」「脚を抜くしずかな力に別れゆきたり」「足が生え」「父はさびしい庭でしかない」いずれにも立ち止まらされる。

1首目、夜更け、起きているのはひとりなのだろう。「卓上の」というところに少し距離感があって、なにかよそよそしい。それで読み進めていくと「妻の挟みし」とあって、なるほどとなる。必ずしも妻の本というわけではないだろうが、少なくとも妻も読んでいて、あるいは妻が先に読んでいて、という関連がある。そのところが「卓上の」にすでににおっている。2首目、結句の「別れゆきたり」に至るまでを使ってしずかな力を描写する。ぬーっとした動きが浮かんでくる。3首目、もとから足は生えているのだが(たぶん)、まるで今生えたかのように駆けてゆく姿を言うにはこの隠喩だろうと思う。大胆ではある。4首目、父という庭で遊んで、遊びつかれて、遊びあきて、いずれはいなくなってしまうのだろうか。根本的なところではまじわり得ない父と子の関係性が見つめられている。

     *

歌集全体をとおして不気味なくらいに静かだ。静かに圧迫してくる。

朝雲のみょうにさみしい夏が来て壜のとなりに壜をならべる

みょうにさみしい、の「みょうに」のひらがな書きがさみしさを表していると言ったら変だが、この「みょうに」の妙を思う。壜のとなりに壜をならべる、というのはなにも遊んでいるわけではないし、変になっているわけでもない。生活の一場面だろう。たとえば洗って乾しておいた牛乳の壜の横に、いま洗ったばかりの壜を並べるでもいい。食卓の上、醤油の壜の横にソースの壜を置くでもいい。その具体をあえて出さずに、「壜のとなりに壜をならべる」と言う。個別具体的な一個一個が引き剥がされているところにさみしさの気分があるとも言える。

死ぬことを考えながら人は死ぬ茄子の花咲くしずかな日照り

堂園昌彦の〈秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは〉(『やがて秋茄子へと到る』、港の人、2013年)を思い出した。情景としてはほとんど重なって映る。しかし堂園の歌が茄子そのものを見ているのに対して、吉川の歌は茄子の「花」を見ている。「どうて死ぬんだろう僕たちは」よりもほかに、死をめぐる思考はさまざまあるだろう。すこし抽象的に「死ぬことを考えながら」とうたっている。このあたりにも微妙な差異がある。そのちがいの部分が互いの歌の読解のヒントとなる。

白桃を電話のあとに食べておりゆうぐれ少し泣いた ほんとだ

「食べており」から「ゆうぐれ少し泣いた」への転換を、「ほんとだ」が支えている。それにしてもこんな念の押し方があるものなんだなあと思う。ほとんど子どもの駄々のようである。たとえば、

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て
   東直子『春原さんのリコーダー』(本阿弥書店、1996年)
晩冬の東海道は薄明りして海に添ひをらむ かへらな
   紀野恵『さやと戦げる玉の緒の』(1984年)

の「来て」や「かへらな」もかなり衝撃的だが、これらとはちょっと温度のちがう、「少し泣いた」に寄り添うような「ほんとだ」である。

秋の陽はあたたかなれど眼球をふたつ埋(うず)めて死者のまぶたは

はじめに「緊密」とか「端整」とか「凄み」とか言ったけれども、いざそれを指摘しようと思うとなかなかに難しい。まず端的に1首ごとにわりあいわかりやすい形で〈歌のポイント〉がある(あるいは、ありそう)と思わせる点に、それらの理由がありそうなのだけれど、しかしその〈歌のポイント〉を指摘してしまったあとには何も言えなくなってしまうというか、そのあたりに難しさがあるのかもしれない。

秋の陽はあたたか「なれど」である。死者のまぶたはつめたいのだ。



*『夜光』の歌の引用は、現代短歌文庫135『吉川宏志歌集』(砂子屋書房、2018年)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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