凡フライ日記

山下翔と短歌

実感から遠くなる言葉 -3-

(3)言葉のもつイメージの違い

 誰かに伝える、ということに話を戻す。
 確かに言葉の習得には、誰かの言っていることを理解するという動機もある。例えばある言葉を知っていないがために笑いどころで笑えない、ということがある。そこに一種のもどかしさを感じ、その言葉を習得しようとするのだ。あるいは専門書を読むときなど、まず言葉がわからずにつまづく。こういう時も、そこに出てくる言葉を習得するというのは、書かれてあることを理解するためのものである。
 このように、一語のもつ力が極端に強い場合や、自分の普段使っている言葉の枠組みから大きく離れた世界に身をおく場合、言葉の習得というのは、そういった世界を理解する手段として採用される。言葉あるいは世界が日常とは違う磁場をもつとき、そしてそれを理解する必要を迫られるとき、言葉の習得はその理解のために行われるのだ。

 しかしそうでない場合、すなわち自分の日常的な範囲では、たった一語がわからないために全体が理解できないということはない。完全な理解は多少損なわれるかもしれないが、それでも話がわからなくて困る、ということは起きないだろう。それは想像力が理解を助けるからである。
 何となくの雰囲気や語感や言葉以外の情報をもとに、それらを統合して理解しようとする作用が働く。その結果、多少知らない言葉があっても問題にならないことが多い。それでも気になれば調べるのだろうが、辞書を片手にファッション誌を読んだりはしないだろう。
 この想像して補うという作業は、自然に行われるというよりはむしろ、自ら望んで行われている。小説を読むことには、想像する楽しみがあると言う。これは全部を規定されたくない、余白があって、そこを補いながら自分の中にいわば理想の世界をつくってゆきたい、そういう<想像欲>と、もっと言えば<想像への信頼>のあらわれである。
 他者の主張を理解しようと思うとき、この<想像欲>と<想像への信頼>がそれを助けてくれる。しかしこのことは同時に、その他者の意図とは違う理解を容易にもたらし得るということを表している。ここに伝えることの難しさがある。

 その誰かに伝えるということだが、誰かに伝えるために言葉にする、ということを我々はいつごろ始めるのだろうか。
 まだ言葉が上手く扱えないうちは、泣いたり駄々をこねたりして「お腹がすいた」とか「眠い」といったことを伝えようとする。しかし家庭外の他者と接するようになる、具体的には保育園や幼稚園に通うようになると、それでは解決できないことがでてくる。そこで誰かに伝えるための言葉と方法を覚えるのだ。それは思春期に好きな人へ思いを伝えるときのプロセスと同じである。

 それで伝えようとするのだけれど、同じ意味の言葉でもそこから連想されるものが違う。このイメージの違いが、伝えることの難しさを生む。「海」という語があっても、それは穏やかな春の海なのか、荒々しい海なのか、夜の不気味な海なのか、月の浮かぶきれいな海なのか、受け手の印象は様々だろう。同じものをみていても「美しい」と感じるかどうかはその人しだいである。
 この言葉はこういうイメージで使う、というある程度の共通認識を持っている世界においては、多少こういった行き違いは減るだろう。しかし一首における一語のイメージが作品全体に影響する短歌において、言葉のもつイメージの違いを意識しないわけにはいかない。言葉のもつイメージに頼っているという側面もあるのだから。
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