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山中智恵子と渡辺松男

永田和宏『私の前衛短歌』(砂子屋書房、2017年)は標的は絞られているが射程は広い。そういう印象に読み進めている。なかに「遍在する〈私〉」という文章があって、山中智恵子のことが書かれている。

みなかみの石に出で入(い)るわが影の胴のかたちか 思い熄(や)みなむ
絲とんぼわが骨くぐりひとときのいのちかげりぬ夏の心に
   『紡錘』山中智恵子

この2首を目にしたとき、渡辺松男だ、と思った。他にも数首引きながら永田はこう言う(p.118)。

 これらの作品に共通しているものを、たとえば肉体の無限定感などということばで仮りに呼んでおく。山中智恵子にとって、肉体は、はっきりした輪郭をもって自己に所属し、自己を他から区別するためのものとは、意識されてはいないのではないかと、思うのである。


石に出入りする〈私〉、あるいは〈私〉を出入りする絲とんぼ。たしかに〈私〉というものの輪郭はおぼろである。このような歌の特徴は渡辺松男にもみることができる。

夕焼けの胸のなかからとりいだしし木造校舎によき鐘が鳴る
さうだわたしは赤いとんぼであつたのだ窓をぬけ出たむすうのわたし
木に凭れこころおちつかせてをればとほい空ちかい空ととけあふ
   『雨(ふ)る』渡辺松男

いま手元ですぐに参照できる最新歌集から引いた。こうして見比べてみるとはっきりと文体の違いが感じられる。しかし〈私〉のあり方、という点においては共通のものがあるだろう。

これらの歌についてはかつて、「胸に浮かべて思うにとどまらず、境界をやぶって現実世界で鐘が鳴る」「わたしは身はこちら側に置きながら、無数のわたしが窓を通過していってとんぼとしてあることを受け取っている」「とけあう境界を見ようとする」と書いた(「渡辺松男の壺」『tanqua franca』)。永田の言う「肉体の無限定感」ということばにはおおいに共鳴する。

     *

渡辺松男の歌集『〈空き部屋〉』には〈わたし〉をテーマに、〈わたし〉をひたすらに詠んだ一連がある。永田が山中のなかに指摘する〈私〉と相通ずるものがあるだろう。

 これらの作品にあらわれる私は、身長と体重の限る、明確だが狭い領域に閉ざされているのではなく、作者自身にさえしかとは特定できないような茫漠とした広がりをもち、むしろ外界にエーテルのように遍在するある種の存在とでも呼べそうなものである。


『紡錘』につづく歌集『みずかありなむ』の歌にも共通の〈私〉を指摘しながら永田はこう述べる(p.119)。さらに文章は、前衛短歌の提起した問題であるところの「私性」に対する山中的解答が〈遍在する私〉ではなかったか、とつづく。『紡錘』も『みずかありなむ』も読んでみなくてはな、と思う。そして渡辺松男については、〈私〉のあり方としては山中的方法と重なりながら、しかしその文体はまた別のところから来ているように映る。ともかくこの二人の共通部分を見たようで、おどろきが大きい文章であった。「遍在する〈私〉」の初出は「短歌」1991年10月号とのこと。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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