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更新するレトリック

リフレインというのは、更新するレトリックと思う。

花電車見たくて見えず肩車してくれた父も叔父ももう亡し
ザリガニのにほひは夏の温水(ぬるみづ)のにほひなり素足素顔のころの
   小島ゆかり

『短歌研究』4月号は「名古屋」特集。掲出の2首は「ふるさとは名古屋です」という連作から引いた。1首目には、「見たくて見えず」「父も叔父も」、2首目には「ザリガニのにほひは夏の温水(ぬるみづ)のにほひ」「素足素顔」というリフレインがある。

リフレイン(畳句)というのが全く同じフレーズをくりかえす方法であるならば、ここでリフレインと呼ぶのは適切でない。しかしだからといって対句というわけでもないので、ひとまずリフレインと呼ぶことにする。

     *

1首目:「見たくて見えず」は、単に「見えず」と言うのとはちがった光景を呼びおこす。見たくて見ようとするけれど、でも見えない、というもどかしいような逸るような気持ちがあらわれている。何とはなく見えなかったのか、見ようとしたけれど見えなかったのか、そこのところに一歩突っ込んでいる。「見えず」を更新する「見たくて見えず」なのだ。

「父も叔父も」というのは事実そうなのだろうけれど、「父」だけでなく、その「父」につながるような存在としての、しかし「父」ほどの近さではないような「叔父」までもがこの世に亡いことが迫ってくる。「父」のみ、あるいは「叔父」のみであれば思い出話をなつかしむ歌になったかもしれない。しかし、「父も叔父も」とかさねることで、父や叔父のような〈存在〉の不在を思わせる。具体的な「父」「叔父」にとどまらず、それを包摂するような〈存在〉へ至っている。

さらに一首を読みくだすときには、「見たくて見えず」と「父も叔父も」ともリフレイン的にひびく。「見たくて見えず」の韻律や更新が、「父も叔父も」を導いているような気がするのだ。

2首目:「ザリガニのにほひ」を思い出す。思い出そうとすることによって、「温水のにほひ」に行き当たる。ここでも〈にほひ〉はひとつ更新される。下絵に色がかさねられるように、輪郭がくっきりとしてくる。「ザリガニのにほひ」という記憶は実際には「温水のにほひ」であったのだ……と説明的に言ってしまわない、「にほひ」をかさねることの効果を思う。

下の句の「素足」は、靴下や靴を履いていない状態の足を言うわけだが、「素顔」はそうではない。そうではない、というのは覆面や目出し帽をかぶってない状態の顔を言うわけではない、ということだ。「素足」に比べるともうひとつ抽象的な、一階うえのことばである。それが「素足」からの関連で浮かび上がってきている。ザリガニ→温水→素足は感触的な関連をもちながら、しかし「素顔」は「素足」からの字面・音の関連から浮かび上がってくる。ここに更新があると思うのだ。

     *

リフレインによって一首の世界が印象をかえながら浮かび上がってくる。思いもよらないところにたどりつく。そういう意味で「更新するレトリック」と思っている。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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