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長崎から長崎まで——大口玲子『ザベリオ』(2019年)

長崎からはじまって長崎でおわる歌集である。

いまだ見ぬハウステンボスいまだ子を原爆資料館に伴はず
     八月九日 長崎原爆資料館
われと違ふガイドに付きてやや先の展示に見入る子の背中見ゆ

印象的な二首を抜き出した。一首目は16ページにある。子を連れて長崎にやってきたけれど、「まだ」原爆資料館には連れていかない(いけない)年齢、という判断だろう。それが二首目、これは156ページの一首だが、一緒にどころか別々に行動しながら原爆資料館をめぐるようになる。この時間の幅に、『ザベリオ』という一冊がある。

     *

人間や社会への重く分厚い眼差しが一首を貫きながら、そこにいつも、息子の存在がある。

「お父さんは元気か」とまた聞かれ子は「はい元気です」と素直に答ふ
つつじ摘み蜜を吸ひたるのちの花を子はためらはず土へ落としぬ

歌集のはじめのほうの二首。一首目、父のもとを離れて母子だけで九州へ来た。そういう事情を知った大人たちが口々にたずねるのだろう。しかし子のほうは、社交としてではなく、ごく「素直に」答えるのである。どこか安堵がある。この「素直に」もそうだが、二首目の「ためらはず」がいかにもその年齢をあらわしていよう。母としては、「いろいろわからないうちでよかった」という気持ちがあるのかもしれない。しかし一方で、

寒の水飲んで炬燵でオセロして完膚なきまで子を負かしたり

と真っ向勝負の母である。手加減をしない。一対一で向かい合う。「寒の水飲んで」というところに迫力、気迫がある。この歌集の本流はやはり人間や社会といった大きなものへの眼差しなのだとおもうが、その濁流のようなもののなかに、いっぽん通る筋があるとすれば、この「息子」への視線だろうとおもう。それはときに苦しいほどである。

忍者には音も匂ひもないといふ 息子は汗のにほひしてゐる
見に来てはだめと言はれて見に行かずプールで泳ぐ息子を思ふ
「ビールの人」と言はれ四人が手を上げてわれの息子も手を上げてをり
宿題に集中できぬ子が不意に「猫とふれあひたい」と言ひたり
子は読書感想画を描き戦争孤児の涙をみどり色に塗りたり
子の肩をいだきよせむとしたるとき「やめて人前で」と言はれたり

「汗のにほひ」に他者性がにじむ。それをかぎとめて、悲しくもあるか。「見に来てはだめ」「やめて人前で」にこもる自意識。いつまでも、というか、もとよりわたしでもなければ、わたしのものではない「息子」という存在。反面、「ビールの人」という呼びかけに手を上げる、「猫とふれあひたい」と言う屈託のなさがある。また、「やめて人前で」や「ふれあひたい」にはどこか引用の感があり、一首のなかには、それを単純におもしろがる一面もある。子の描く「みどり色」の涙のまえに立ち止まる。子のひとつひとつの言動にゆさぶられる母のすがたがある。そしてだからこそ、子をつつむ、もっと大きなものへの眼差しはいっそう厳しいものになっていく。

     *

     八月八日
バスで行く長崎平和学習の往路息子が配るキャンディー
寝る前の祈り短くとなへたるのちを息子は男子の部屋へ

さいごの長崎の場面である。「成長」や「自立」という安易なことばをのみこんで、ふりはらって、こういう眼差しが残る。命のはじめの小さな小さな誕生のときからすでに、別れがはじまっている息子と母の、小さな小さな決別のくりかえしが、一冊のなかに切なく刻み込まれている。


※歌の引用はすべて歌集『ザベリオ』(青磁社、2019年)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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