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視線の束——近藤寿美子『桜蘂』(2019年)

眼が覗くための穴ありいくつもの穴が見てをり面を売る店
満身に月の視線を浴ぶるときかすかに汝(なれ)は瞼をひらけ

眼、覗く、視線、瞼など、「眼」や「見ること」にまつわるうたを二首引いた。一首目はお祭りかなにかの場面。いわゆるお面を売る店を見ている。ずらっと並んだお面のどれを見ても二つの穴があいている。それが「覗くため」であるのはいわずもがな、しかしそれが、あえて強調されて述べられる。「見る」ことをつよく意識したうただ。穴はあるけれど、お面であるから、そこに「見る人」は存在しない。無数の穴だけがわれのほうに向いている。奇妙な体感がおそう。二首目、月のひかりが「視線」のように汝をさす。あまたふりそそぐ視線に、反応せずにはいられない。耐えきれず瞼がひらくようである。あるいはそれを願うこころ。ちなみにこの「汝」は、前後のうたからお腹のなかの子とおもわれる。満身を透過するような月の視線をおもう。

たまたまだが、どちらも無数の視線がひとつ束になって降りかかる。対してわたしは、たったひとつの視線しかおくりえない。

     *

その、たったひとつの視線が、束のようにつよいのがひとつの特徴である。

雪のなきわが街へ雪ふりこぼし貨物列車が過ぎてゆきたり
あかつきの雨を吸ひたる泥を踏むはつか沈みてみづは浮き出づ

一首目、貨物列車が過ぎてゆくのを見つつ、そこにふりこぼれる雪を見ている。さらにその奥には、「雪のなきわが街」をかえりみる。かえりみつつ、ふりこぼれる雪、そして雪をふりこぼしつつ過ぎる列車をじっと見ている。二首目、地面の「泥」だが、「あかつきの雨を吸」ってゆるくなっている。それゆえ踏み込んだときに「はつか」沈み、おされて「みづが浮き出」る。こまかなこまかな一場面である。

眠りより覚めざる獅子の背のやうな春まだあさき滝の水公園
子と夫とわれのバランス保ちつつ秋空にふれてゆく観覧車

比喩のうた二首。一首目、「眠れる獅子」を「眠りより覚めざる獅子」とひきのばし、「眠っている」ということよりも「覚めざる」ことが強調される。春であるから冬眠からいきものが目覚める、ということへの意識もあるかもしれない。おだやかな春の空間がある。その予定調和をやぶるような「滝の水公園」であり、字余りである。微細な感触をとらえている。二首目、高いところに手をのべて身体の不安定な、感覚をおもいだす。ものをとったり、電球をとりつけたり。「秋空にふれてゆく」というのは、そういう届かぬものへ、あと少しで届きそうなものへ触れようとするときの、心身の不安定をふくんでいる。いや、それにしても「観覧車」のひとつゴンドラが頂点へいたって、なにか空(くう)をつかむような感触をのこしつつ下降していくさまは、まこと「秋空にふれてゆく」という感じがする。その動きに照らせば、「子と夫とわれのバランス」というのは物理的・空間的なものであろうが、同時に、人と人との関係におけるバランスのこともおもわざるをえない。いずれの比喩にも、ひとつ空間に流れるもの、ただようもの、その空間がどういうバランスのうえに成り立っているか、ということを鋭くとらえる眼差しがある。それは必ずしも「目」だけの仕事ではないが、全身が「目」となって場をとらえているように感じる。だから束なのだ。

     *

あとすこし、うたを引く。

どの船にも名がつけられてゐることのかなしも岸に待つといふこと

船にはりつく「名」のかなしさは、すなわち「岸に待つ」ことのかなしさと言う。名づけなしには名はうまれない。名という鎖のかなしみをおもう。

指ほそく黒きマニキュアが詰めくれしコンビニのパンひとくち齧る
トンネルの暗闇が不意に映しだす母より生れて父に似し貌
選ばれて降るにはあらず海岸の砂に積もる雪海に消ゆる雪
吹き消してらふそく抜かれゆくときのホールケーキに孔(あな)しづかなり
皿の上(へ)に添へられし薔薇のはなとしてサーモンの身は巻かれてをりぬ

見えてしまったところを手がかり足がかかりにしてもうひとつ踏み込む。その視線のつよさ、奥深さ、全身性が、束になって一首をかたちづくっている。


※歌の引用はすべて歌集『桜蘂』(短歌研究社、2019年)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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