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季節はずっとめぐるけれども——大野英子『甘藍の扉』(2019年)

三品を作るつもりで準備して二品で終る一人の夕餉

「一人の夕餉」なればこそだろう。はじめは「三品」くらい作ろうとおもって準備していたが、結局は「二品」で終ってしまった。はじめから「二品」とおもって「二品」作ったのではこの感じはでない。仕事おわりで疲れていたのか、時間がおしかったのか。はっきりとこれ、という理由があって「二品」と決めたわけではなく、なんとなく「三品」が「二品」になってしまったのだ。暮らしのなかの一首である。

咲くまへに桜並木がほの霞む顫(ふる)へるやうな切なさに似て
デパ地下に働くわれの休日は陽に会ひ風に会ひに外出(そとで)
父と二人で柵を作りし朝顔に今朝むらさきの花ひらきをり

いわゆる「デパ地下」に働く日々がうたわれるⅠ章から引いた。いちにち建物のなか、それも外の景色の見えない地下で、「陽」にも「風」にも会えない日々を過ごす。通勤、退勤の時間帯はまだしも、日中、季節のうつろいも感じられなければ、雨なのか晴れなのかもわからない。だから休日は「外出す」る。一首目は、そんな日々にあって「咲くまへ」の「桜並木」を感じている。「顫へるやうな切なさ」をみとめているところが独特だ。三首目は「朝顔」。「父と二人で柵を作」った思い入れのある「朝顔」である。その「むらさきの花」が今朝ひらいた。ともしびのような一首である。この「父」とのなにげないうたが、Ⅱ章を読み進めるうちに切ない思い出にかわっていく。

     *

秋の夜長を楽しみに買ふ椅子ふたつ星見る椅子と読書する椅子
歩けなくなりゆく母はくづれかけの粘土細工のやうに座れり
けふ少し精神錯乱の父にしてきれぎれに言ふことば正論

いずれもⅡ章から引いた。一首目、ここでも季節への視線がある。秋になったらベランダに出て星を見ようか。部屋のなかで本を読もうか。季節の変化を「楽しみに」している。明るいうたである。対照的に、二首目の「歩けなくなりゆく母」、三首目の「けふ少し精神錯乱の父」に不安になる。「粘土細工」や「ことば正論」のきっぱりとして冷静なまなざしが、きびしい現実を伝えてくるからだ。

このⅡ章は、「父」「母」の介護の日々、そしてその最期を見送る日々を克明に刻んだ一群である。

われはまだ泣いてないのに見舞ふ人みな父を見て涙を流す
満開に桜咲くあさちちのみの父のたましひは父を去りたり
なぜこんなに冷たいのだらう手触りのやはらかきままの父の耳朶
密度濃き季節は終るいちにちも洩らさず父に付き添ひし冬
燃え残る頭蓋にずらり歯は残り食べたかりけんステーキ、カツなど
切れぎれの父のこゑして目が覚めぬ雨降る音か朝まだ暗き

泣きたいけれど泣いている場合ではない立場と感情。「見舞ふ」であるからまだ亡くなっているわけではない。それなのにみな「涙を流す」。なんだかもう終わりみたいで悲しくなる。けれどもわれまでもが泣いてしまえば、父は、本当に死んでしまう。二首目、満開の桜にまじるように、「父」をはなれゆく「父のたましひ」。韻律なめらかな一首のなかで、感情はむしろうすく、そのことがかえって胸をうつ。「耳朶」「頭蓋」「歯」におもうこと、おもいだすこと。おもいかえす冬の時間。父のいた季節。その濃密だった日々が、父の存在が、いまだにわれを離れない。

父のこと思ひ出すたび泣き出して泣き止みてもう忘れゆく母
遺影の父の視線の先の庭の梅ありえぬほどに大きく育つ
さあ、と声出してもひとり梅雨入りの朝曇(あさぐもり)せる実家の庭に
ひとりよりさらに寂しもわれのことなじるばかりの母とゐるとき
いく筋も飛行機雲が伸びゆきて青空にいまバッテンがつく
父はゐず母は戻れぬ食卓に灯りを落しひとりもの食む

ゆるやかに季節はうつり、「父はゐず母は戻れぬ」実家の庭にも梅の実が太るようになった。感傷にひたる間もなくやるべきことが日々にあり、また、しだいにおとろえていく母がいる。はじめに引いた「一人の夕餉」とはおおきく状況のちがう「ひとりもの食む」である。「ひとり」の厳しさ、それよりも寂しい「母」との時間。「泣く」ことも「忘れる」ことも「なじる」ことも、もう自分ではどうにもできない母なのだ。そのことがわかっているから、よけいにこたえる。五首目、さしはさまれた「いま」が示唆的にひびく。

ゆれながら冬日に乾く干し物のやうにゆつくり母よ癒えゆけ
血清が腕より入りて血尿となりて出でゆく母のからだは
昼の星よりも幽かな母の意識ここにゐるのにわれに気付かず
電線に光る水滴風ふけばもうあきまへんと落ちてゆきたり

こんなにつぶさに書かれていていいのかとおもうほど、ひとつひとつ、丁寧につづられている。その比喩が正確であればあるほど、また、眼差しが冷静であればあるほど、胸がいたむのだ。一首目、冬のよわい日差しにそれでもゆっくり時間をかけて乾いていく服を見ている。ゆっくりでいい、少しずつでいいから癒えてほしいと願う。二首目、「血清」が「血尿」にかわるという〈発見〉が、そのまま提示される。この〈発見〉のほぐされなさに迫られる。三首目、「昼の星」はあるけれども見えないもの。そのように「母の意識」がある。母にとっては「われ」の存在こそが「昼の星」になってしまった。ここに「われ」はいるのに、母には気づかれない。四首目、事切れるような「落ちてゆきたり」である。「もうあきまへん」の息づかいが切ない。

あけがたの楽しみ一つ湿りある土ごと根ごとどくだみを抜く
世話すればするほど庭は生き返りちちははは生き返ることなし
夕焼けのうすれゆく道ほそき道また来てしまふちちははの墓

「ちちはは」がいなくなっても、家の庭はのこる。のこれば誰かが世話をしなくてはならない。世話をすれば、いやおうなくおもいだされるのが「ちちはは」との日々である。「土ごと根ごと」「うすれゆく道ほそく道」のリフレインがやさしい鼻歌のようにひびく。「楽しみ一つ」にすくわれるように読んだ。

     *

『甘藍(かんらん)の扉(と)』という題は、次の一首に由来する。

やはらかき甘藍(かんらん)(と)をひらいてもひらいてもひらいても父ゐず

甘藍とはキャベツのことである。キャベツの葉を剝いでも剝いでも、庭草を抜いても抜いても、そして季節は今年も来年もめぐりめぐるけれども、もう、そこには父も、母もいない。「コスモス」所属の著者による第一歌集である。


※歌の引用はすべて歌集『甘藍の扉』(柊書房、2019年)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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