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1首鑑賞274/365

老い深き鯨のごとし沈みゆく船はときをり水噴き上げて
   栗木京子『ランプの精』

     *

このうたを含む歌集68ページ、69ページの五首ひとまとまりは、「セウォル号」沈没事故に際してのうたである。そのはじめの一首は、「二〇一四年四月、韓国の大型旅客船が転覆し、沈没。修学旅行中の多数の高校生が犠牲になった。」と詞書をおいて次のようにうたわれる。

セウォル号のセウォルは歳月 若者の今日も明日も海中に消ゆ

掲出歌はこのうたにつづく二首目。ニュースの映像などで見たのだとおもうが、「ときをり水噴き上げて」の細部が、さらに初二句の比喩によって生々しく迫ってくる。どうしてこんなに臨場感があるのだろう、というのはつづく三首をみてもおもうことである。

客船は息絶えゆけりそののちも息継ぐ人らあまた容(い)れつつ
携帯から言葉届けど人間は重さを持てり船を出られず
若き声、若き呼吸の船内に満つれど浮力とはならざるや

「若き」人が多くなくなったことが、ひとつの核になっている。「若者」の「今日」や「明日」やこれからもっと続いたであろう「歳月」をおもい、そんな「若者」の「若き声」「若き呼吸」、つまりは「若者」の「力」やエネルギーが、(あたりまえだが)「浮力」とはならず、船を出られずに沈んでいく。そうであるのに、か、そうであるから、か、掲出歌では船体が「老い深き鯨」にたとえられている。息絶える「客船」と、そののちも息を継ぐ「人」との対比も、それにつづく意識だろう。じっさいこの事故は「人災」の側面がおおく指摘されており、その点も「若者」との対比に反映されているようにおもう。

あとはもう沈んでいくより他ない船体が、それを強調するかのように水噴き上げるさまには、絶望に絶望を塗り重ねるような痛ましさがある。しかし船は、鯨ではない。船のなかには多くの命がのこっていた。「鯨のごとし」と言ったときにうまれてしまうどうしようもなく「鯨ではない」という逆説が、きびしい現実として一首に貼りついている。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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