2018/03/17
岡井隆『鉄の蜜蜂』(2018年)
岡井隆のうたに感じるかっこよさ、というのはなんだろうなあと思う。この歌集の表紙(帯?)には「甘美なる挑戦状」とあるのだが、まず装丁からその気分が出ている。かっこよさ、というのは歌からあらわれる〈私〉のたたずまいのかっこよさなのだと思うが、しかしまた、かっこいいというのが適切でないような気もしている。・満月が来てるといふが見に行かず別便で着くマンゴを待つてる
「つきの光に花梨(くわりん)が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて」(『ネフスキイ』)という歌があって、うっすらかさなるところがある。満月が「出てる」ではなく「来てる」というところにひとつの把握があるが、これは「行かず」との対応もあってのことと思う。――ほう、満月が来てるんだって? ぼくは行かないよ――という感じで、満月との対峙には興味を示さず、別便で「着く」(これも「来てる」「行かず」と連携している)という「マンゴ」(マンゴーではない)に心はある。
満月とマンゴは似て非なるものである。満月の「満」にはそそられない、とでもいうような態度がうかがえる。こういう姿にあるいはかっこよさを感じるのかもしれない。どうだろうか。
・傾いていくつてとてもいいことだ小川もやがて緋の激流へ
・雲あつく眉のあひだに垂るるとき旧友の死にしばし黙禱
表現されるもののスケール、というのもあるだろうか。なにもなしに「傾いていくつてとてもいいことだ」といわれるとき、「傾く」ってどういうことだろうかと思う。たとえば政治的な態度を想像してもいい。下の句では「小川もやがて緋の激流へ」といくらか具体的に述べられるのだが、しかしこれもまた比喩のようにうつる。「緋」「激流」というのがそう思わせるのだろう。
「雲あつく眉のあひだに垂るる」という荘厳な光景がおのずから「黙禱」へつながっていく。重く、動かない気がある。(ちなみにこの歌からずいぶん離れたところに「雲あつく眉のあひだに垂るる間(ま)をもろともにあさの黙禱をせむ」という歌がある。)
*
・家中にいただきし花が咲きつづくわたしの過去が咲いてゐるんだ
・過去と共に明日(あした)が一つづつ咲いて家内(いへぬち)を明るく照らして下さい
隠喩の魅力、ということかなあとも思う。「過去が咲いてゐる」というのは「過去にわたしの成したことに対して、方々より花が贈られてそれが咲いている」というふうに読んだけれど、もっと直接的に、まさに「過去」(そのもの)が咲いていると思おうとすることもできる。そのあたりが絶妙なのだろう。この歌をうけて2首目、視線は「明日」へ向いていく。「咲いてゐるんだ」「明るく照らして下さい」の口調というか文体というか、岡井隆だなあと思う。
・稲妻のあと雷(いかづち)の来(こ)ぬやうなそんな批評もないではないが
・濁流の中洲のやうな人生に水増しながら夏が来るんだ
・ああ返辞は書いたよ幾つもいくつもね同じ文面を違ふこころで
・どの人にも青春があつたにちがひないお似合ひのシャベルを摑んで掘つて
・大岡さあん!「詩とはなにか」と問ひながらわれ鼻垂れてまだ書いてます
・父の日のプレゼントにモンブランくれたればそのペンで書く「秋に会はうぜ」
1、4首目の批評の眼差し。2首目の立ち姿。3首目の下の句。5、6首目の態度と口調。ゆっくり読みたいと思う。
*
最後に1首。
・死にたいといふ声がまた遠くからきこえる午後を茶葉で洗ふ歯
「死にたい」は誰の声だろうか。「茶葉で」にしみじみと立ち止まった。
*歌の引用は歌集『鉄の蜜蜂』(角川文化振興財団、2018年)に依ります。
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