永田和宏『午後の庭』(2017年)

十三番目の歌集である。河野裕子を失ってのちの日々から歌集は始まる。

かくも悲しく人を思ふといふことのわが生涯に二度とはあるな
晩年とふを持たざりし君の悔しさを誰かがわかつてゐてはやらねば
   そして一年
一周忌と人に言はれてはあそんなものかと思ふどうでもよけれど

「二度とはあるな」「ゐてはやらねば」「はあそんなものか」「どうでもよけれど」と肉声が並ぶ。二度とはあるな、というときに思い返される人がいくらもあるのだろう。それはすでに失った人の顔であり、あるいはこれから失うであろう人の顔である。それが浮かぶから、二度とはあるな、と声が出るのだ。君の悔しさであれば、それは君にしかわからないのではないか、という気持ちが半分。しかしそれをわかりうる、そこに触れることができる、ともに抱くことができるというあり方も、半分わかる。一周忌という〈括り〉について、この歌につけたすことはない。「どうでもよけれど」というところへは入っていけないな、と思う。

     *

ふらりとひとりで吞みに入るといふことの息子にはできてわれにはできぬ

妻をおもう気持ちは自然と家族への視線に移る。それはときに自らの父母へ向き、またあるときは娘息子に向く。さらには孫、あるいは猫そのほかの動物、植物への眼差しもそこに加えられようか。掲出の1首は息子へ向けられている。

河野裕子が「さびしいよ息子が大人になることも こんな青空の日にきつと出て行く」『体力』とうたった息子である。この近くにあって遠いものとして息子を見つめる視線が、反射して、われに返ってくるような、そんな下の句と思う。

この歌から100ページばかり先にすすむとこんな歌がある。

さびしいよ どんなに待つてももう二度と会へないところがこの世だなんて

当然、先にあげた河野の1首をふまえているものと思う。家を出てゆく息子の背中はそのまま、この世を出ていってしまった妻の背中にかさなって映る。待っていれば、ときどきは帰ってくるであろう息子。待っていても、もう二度とは会えない妻。それぞれに異なる「待つ」ではあるが、それらを「さびしいよ」という声が内包している。

     *

あと3つ、歌をあげて終わりにする。

あなたとふやさしき言葉に呼ばれゐしあの頃あなたはわたしであつた
仰向けによろこぶ猫の無防備がうれしくて撫で丸めては撫づ
     尖閣のことなども思はれて
わが庭を自分のものと思ひゐる蜂がゐてむづかしいなり戦へば負ける

今はわたしを「あなた」と呼ぶ人はいない。わたしが「あなた」であった時間が、「あなた」であったころのわたしがまばゆい。二首目、「うれしくて」という素朴は永田の歌の特徴の1つであろう。そこにあって「丸めては撫づ」という結句がこの歌をひとつ特別のものにしている感がある。猫を丸めるという動作もそうだし、それを「丸める」と述べるところにも〈わたし〉が見える。蜂との緊張、という場面そのものは特別ではないが、たとえばそこに「尖閣のことなども思はれて」と詞書がつき、あるいはそこを起点としてか、蜂とわたしの緊張をもうひとつ踏み込んで掴んでいる。「わが庭」の「わが」への疑いがにじむ。こういう敷衍もまた永田の歌のひとつの姿である。



*歌の引用は歌集『午後の庭』(角川文化振興財団、2017年)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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