凡フライ日記

山下翔と短歌

実感から遠くなる言葉 -2-

(2)型の中で制約される言葉

 ある程度の期間、歌を作り、歌を読んでいると、五・七・五・七・七の型が身についてくる。この型を身につけてようやく、自分の心を短歌にのせることができるのだから、作歌を始めたばかりの頃は、とにかくどんどん作って自分の中にこのリズムを馴染ませるべきだ。字余りや字足らずといった破調の効果も、この型への意識、もっと言えば信頼感があってはじめて期待できるものである。だから、とにもかくにも始めのうちは定型に収めることを念頭におくわけことになる。

 いざ定型に収めようとすると、これがなかなか難しい。自分がこれまで使っていた語彙では追いつかないような実感を掴むこともある。また、これまで使っていた言葉が、実は実感から離れている、ということもある。それで、言葉を探しにいったり、実感を細かく分析してみたりするわけだ。
 短歌は短いけれども歌である。それゆえ歌としてのリズム(韻律)を整えることに苦心することもある。読みやすさであったり、歌の緩急や流れであったり、何度も口ずさみながら言葉を差し替えたり削ったり、並べ替えたりすることになる。

 しかし、しばらくすると定型に収めることに慣れてくる。この、慣れというものが実は怖い。簡単に短歌の型に収めることができるようになり、もっと正確に言えば、収まるような便利な言葉や表現を覚えてしまって、それで何となく短歌(のようなもの)が作れてしまうのだ。それが自分の中でパターン化され、たいして考えもしないうちに短歌の形になってしまう。
 この初心者特有とも言える現象は、たとえば弓道に見られる「早気」に似ている。弓道には矢を放つまでの所作があるのだが、的にあてようという意識が強くなるあまり、その所作にかける時間が短くなってしまう。その結果、思うように的にあたらなくなるというものだ。これは単に気が急いて時間が短くなることに問題があるわけではない。心静かに矢を放つ体勢をつくる、その繊細さを欠いてしまうところに問題があるのだ。
 短歌に話を戻す。たとえ始めのうちは言いたいことがあって、短歌にしたい題材があって、そのために言葉を選び、配置を考えていたとしても、その作業が失われてしまう。手っ取り早く短歌が作れてしまって、そこに違和感をもてずに蓄積されてゆくことになる。しかし短歌には弓道と違って的がない。自分の短歌が大きく的を外れていることに気づかないまま惰性で作歌を続けてしまう危険性があるのだ。

 骨格なき肉体はだらしない。そういう意味で短歌の型というものは確かに必要である。しかし骨格だけで肉体がないのは面白くない。そこに、自身の肉体性をどのように付加してゆくかが、作歌においてはむしろ重要なのだ。型のなかに、その制約の中でどのような言葉を流しこむか、そこに作歌の真髄がある。
 いかに論理的なことであっても核心は気分にある。自身が感じ取った雰囲気にこそ、短歌のエッセンスが詰まっている。自分の没頭する世界において感じ取った気分を、どのようにして伝えるか。そのために用語や概念を整備していくのは数学でも物理でも同じことだ。
 短歌には三十一文字という型がある。
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