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花水木

「家」を「実家」と呼ぶようになったのはいつだったか。気づいたらそう呼ぶようになっていた、そう呼ぶような場面が増えていた、という気がする。多くは進学や就職を機にそれまで暮らしていた「家」を出て、またちがう「家」で生活するようになったときに、かつての「家」を相対的に「実家」と呼ぶ、という側面はあるだろう。

ただ、それは本当にひとつの側面でしかなく、かつて暮らした「家」を「実家」と呼ぶかどうか、呼び得るかどうか、呼びたいかどうかは、さまざまであろうと思う。また、「家」そのものは変わらず(つまり、ずっと同じところで暮らしていよう)とも、あるときから「実家」と呼ぶようになることも当然ある。

「生家」ということばがあるが、こちらは生まれたところ、あるいは生まれたばかりの頃を過ごしていた「家」を表す。「実家」ということばがもつ相対的なものはここにはなく、ただ事実としての「生家」があるのみだ。むろん「生家」をもつかどうかはこれも人それぞれである。ただ、「実家」ということばは、それに比べてもいくらも複雑である。

いつの間に「実(じつ)」の字をつけ呼ぶ家の道に変わらず花水木立つ
   佐佐木定綱「文机」

角川「短歌」1月号から引いた。「実」の字をつけて呼ぶようになったという変化への意識と、そこから生まれる「変わらない花水木」への視線が「の」を媒介にしてあらわされている。「家の道」は「家路(家への道)」ととるか、「家のなかにある道」ととるか。ここでは後者をとって、庭の広い家を想像する。いろんなことは変わってしまって、わたしも「家」も「花水木」もあの頃のままではないし、今も少しずつ変化しているわけだけれど、それでも「家」と呼んでいたころの〈感じ〉や、今、「実」の字をつけて呼ぶようになった〈感じ〉や、花水木がずっとあって、今もあるという〈こと〉、というつかみどころのないものがむしろ、はっきりと変わらず手のなかにあるような雰囲気がつたってくる。

氷三つグラスに投げて金色(こんじき)のウイスキー傾けている父
   同

同じ一連からもう一首。グラスに「投げて」という手つきから、「父」の姿を想像する。「金色(こんじき)」も昔のままだろう。酒を飲む姿勢や、何を飲むか、どう飲むかにもおのずと歳月があらわれる。変わるものも変わらないものもあるだろう。「実」の字をつけて呼ぶ家への視線の先に、花水木があり、父がいる。



*歌の引用は『短歌』2018年1月号(角川文化振興財団、2018年)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。歌集に『温泉』(2018年)がある。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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