久田恒子『母子草』(2017年)

4つの章からなる第3歌集である。といっても、最後の章「さくら月」は岩間郁子氏の章であるから、実際には3つの章からなると言うべきかもしれない。親子歌集というあまり見ることのない体裁をとっている。ここではその3つの章の歌を読んでいく。

まずは「木の葉しぐれ」というはじめに置かれた章より。

絆とはつね温かく後ろよりわが眼をふさぐ小さきてのひら

絆とはつね温かく……と、これは一般論かと思えばそうではない。だんだんとその姿があらわになってくる。単純ではない。そしてこの「絆」という語の使い方も、こう歌われてみると、いわゆる「絆」とは少しちがう感じが見えてくる。章のおわりのほうにこんな歌がある。

好き嫌ひ多き子のため祖母といふ絆が人参クッキーを焼く

先の「小さき手のひら」は孫の手のひらであったのだ。「祖母といふ絆」と言うとき、絆ということばにこもる温度は冷たくも熱くもない。親子ではなく、祖母と孫の距離感だなあと思う。でも、私にとっては見たことのない「絆」であった。

     *

読み始めて、すぐにおだやかな気持ちになる。一首に乗る思いはささやかだ。こちらが入っていく余裕がある。この一首のたたずまいは不思議だなあ、と思う。

涙いっぱい溜めてゐる子の言ひ分を腰をかがめて聞いてやりたり
降りますと席ゆづりくれし青年が長く吊り革にぎりつつ立つ

ゆったりとした動作が浮かんでくる。静かだ。子の言い分も、その顛末も、青年の気持ちもわからない。そして〈私〉の思いも。けれども、じんわりと伝わってくる。「聞いてやった」そのことがまず大切なのだ。そこに「腰をかがめて」と動作が入る。一首の構成は緻密だ。青年と〈私〉の奇妙な時間が流れる。バスの中には二人だけがいるような、その場面だけをじっくりと思わせるような描写の方法である。

美しく老いるといふは絵そらごと施設の友が匙へ口開く
ふんわりと月のひかりに包まれて影とふたりの路地もどり来る
ひと笛が組体操をくづしたり五月の風の光る校庭
蝶々とはしゃぎてゐたる背の孫がねむりはじめて重くなりたり

「絵そらごと」と言う視線は厳しい。「匙へ口開く」という直截な述べ方がそれをあらわしている。自らの影と自分との「ふたり」で歩く、という視線のほうへは注目させないようになっている。当然のごとく、「ふたり」で歩く。さしはさまれた「路地」に気をとられているうちに。ピーッと笛がなって、それに合わせてばさーっと組体操がほどかれる。この一瞬を「ひと笛が」「くづしたり」という。その一瞬の「動」と、そののちにおとずれる「静」が鮮やかに対照的だ。「重くなりたり」とさりげなく言う。自らはすーっと後ろのほうへ引きながら、細部を描き込むことで〈私〉の存在を感じさせない。

一杯ぐらゐ飲めよと注ぎてくれし夫お陰でいまも少し飲めます
赤とんぼわたしの指に寄っといでこんな日の暮れどきはなほさら
花に疲れ人に疲れしバス停になほも追ひくるさくらいくひら
群れ咲ける花大根にむらさきの雨の降りつつ風もむらさき

「お陰でいまも少し飲めます」にぐっとくる。こんな思い方があるんだなあ、と思う。そしてこんな歌い方があるんだなあ、とも思う。「こんな日の暮れどきはなほさら」は語気の強い下の句である。句またがりが性急に結語を求めている。あるいは「花に疲れ人に疲れ」のたたみかけ。それでもまだ追ってくる桜の花びら。すこしこわいくらいだ。「風もむらさき」によって世界はもういちど塗り替えられる。

     *

次なる章「蟬の終焉」より。

孫の婚聞きたる今日は何もかも輝きて見ゆましてや四月
いわし雲仰げば旅がしたくなる人の訪はざる寺へ古墳へ
かすかにも砂を起こして湧きいづる清水が山のみどりを映す
ひとりでは漕げぬシーソーに腰かけてままならぬ世の空を見あぐる

「ましてや四月」と一歩も引かない。ここにきて「人の訪はざる」という心境は複雑なものだろう。集中、ひとりの時間を余すような歌もいくらかある。「旅」なればこそ、「人の訪はざる」なのだ。いわし雲と心を並べるような風情がある。「かすかにも砂を起こして」のクローズアップから「山のみどり」まで大きく引いていく。さながら〈芋の露連山影を正しうす〉(飯田蛇笏)といった感じか。「ひとりでは漕げぬシーソー」というのは把握であるが、そこから「ままならぬ」を引き出している。これもひつとのズームアップと言えよう。

三つ目の章「歳月茫々」より。

抜けるやうな青空どこまでのぼれるか可能にしたき不可能もある
ふるさとの姉のもみたる干し柿の夕日のいろが今年もとどく
となり家の犬にソーセージ与へつつ手なづけといふ狡きことする
離れゆくもの多きこの世に律儀にも従かず離れずひとつわが影

決してそんなことはないのだが、どこか若書きとも思われる「可能にしたき不可能もある」という下の句におどろく。「干し柿の」の「の」でひと呼吸おいて、そこから「夕日のいろが」とあらためてその存在感が示されたのち、「今年もとどく」と、読者の前に差し出される。「狡きことする」の自らへの視線は「絆」を言うときの視線であり、また「絵そらごと」を言うときの視線でもある。この世を去ってゆくもの、だけではないだろう。出会ったものはいずれ「離れゆく」。そんな中にあって、つくともはなれるともせず、ただそばにある「影」の存在が、特異なものとして描かれている。「律儀にも」にはそれを不思議に思う気持ちも含まれよう。

静かなようで感情の機微は微かに震え、それが韻律ゆたかに描かれる。〈私〉のまわりを描くその視線の束からさりげなく〈私〉が立ち上がる、そんな歌集である。



*歌の引用はすべて歌集『母子草』(芸文堂、2017年)に依ります。
*拗音の表記など、旧かなの表し方についても歌集の表記のまま引用しています。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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