喜多昭夫『いとしい一日』(2017年)

 8つの章からなる、著者8冊目の歌集である。

   新歓コンパ
ハイボール、とんッと置きたる傍えには羽根つき餃子の羽根のしずけさ

 「金沢大学文藝部外伝」の章より。宴会の一場面だ。厚いジョッキに入った「ハイボール」だろうか、「とんッ」という音がまことふさわしい。(どんッ、ではない。)「ハイボール」という飲みものの軽さもあくまで「とんッ」である。そのちょっとポップで元気な感じと「羽根のしずけさ」が対置される。輪のなかにあってわたしは少し俯瞰の視点で見ているわけだ。意識のクリアな感じが場の雰囲気とずれるようにあって印象的だった。

   シルバーの表紙がやけにハマってた。
染まらない白ってこんなか『さようなら、ギャングたち』読む君の横顔
   NOKKOに乾杯!
レベッカがフレンズ歌う いいぞいいぞ しびれるような月夜の晩だ
城あとの草に寝転び岸上の無援のうたをくちずさみたり

 「さようなら、ギャングたち」(高橋源一郎)、「レベッカ」(のボーカル「NOKKO」)の「フレンズ」、「岸上」大作の「無援のうた」——〈血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする〉だろう——など、時代を象徴するアイテムに、むろん当時の空気感は知らないのだけれど、リアリティを感じてしまう。そのアイテムをうたうこと、うたのことばとして選ぶこと、アイテムを象徴におしとどめずにそこへ何かを言えることにリアリティを感じるのだろう。なにか時代のなかで青年だった一人のひとの声が聞こえてきてやまない。
 一首目、表紙の詞書から「染まらない白」を想定するのだが、結句は「君の横顔」で結ばれる。一首を通過することでわたしは君へたどりつく。二首目、さしはさまれた「いいぞいいぞ」に声を重ねたい。三首目、石川啄木の「不来方の」が下敷きに普遍的なものとしてあって、そこにわたしは「岸上」を持ってくる。

   声変わりする前の僕がカセットテープの中にいた。
タイムカプセルを開けたら僕あてにいきなり「生きてるかな?」って訊くな

     *

 あんまり歌を挙げるともったいないような気がしたけれど、それは1つ1つの章に標的となるような誰かが居て、そこに向かってまっすぐに思いが向けられるかもしれない。先の「金沢大学文藝部外伝」であれば、あのころのわたしへ向けて歌われる。次の章「千里浜なう」の標的は「君」だ。

   ユウコ(ありふれた名だ)
砂浜に君の名前を書きたればキモイからやめろやと言われき
   好きなんだ、好きなんだよお(と夕日に向かって叫ぶ)
帆のような横顔だった ひと呼吸置くようにして「ごめん」と言った

 一首目、「キモイからやめろや」の「や」は「ほんとうにそうだった」のだろうし、それを「書きたれば」と「言われき」で挟み込む形をとっている。強烈な直接体験の過去だなあ、と思う。全体に物語や芝居のにおいが強いのだけれど、それでも、と立ち止まってしまう。二首目もそうだ。こっちまで苦しくなる。

 次の章へいく。「リュウへの手紙」、標的は岡井隆だ(と、ひとたびは思ったが)。

歌は龍 どこまでも昇れ すめらぎの岡井隆歌碑除幕式典

 左端に章題の書かれた扉の中央に据えられた一首である。岡井の「ヘイ龍」の一首が念頭にあるのだろうし、そもそもこの「龍」は「隆(=りゅう)」である。ところで下の句の「岡井隆歌碑除幕式典」は字面もそうだが、「すめらぎの」という枕詞からの接続というのもあって荘厳な感じがありながら、しかし、音読してきもちがいい。「歌は龍」「どこまでも昇れ」の息の短さに対して、「すめらぎの」で大きく息を吸って吐き出された長いことば、のようにうつるからだろうか。
 この章、岡井隆にどっぷりいくかと思えば、そういうわけでもない。岡井隆をとっかかりにして、もうちょっと広く、いろいろの事象が歌われている。さらに次の章、「鳥居ならここにゐます。」の鳥居はもちろん、ちょうど「現代短歌」の二人五十首で岡井とタッグを組んだ「鳥居」である。「岡井」論や「鳥居」論ではないが、かたわらに「岡井」があり、「鳥居」があり、という温度ですすんでいく。

     *

 あと三首だけ、歌を読んで終わりにする。

波寄せて前ゆく波を越えざりき襟立てゆかん冬の渚を
ねじをゆるめればくるくるたちあがりたちあがりくるねじというもの
はつものの梨の歯ざわり 湧き水のようにはじまる秋の一日は

 一首目、以前「やまなみ」に書いたものを少し引用する。ある種のポーズなのだが、気分がよく出ていると思う。

波は次から次に岸に寄せるけれど、そのどの波も前をいく波を追い越せない、という上の句の把握には説得力があるし、なにか先蹤につづこうと自らを鼓舞するような力強さが一首を貫いている。(中略)黒瀬はいつだったか角川「短歌」の巻頭エッセイでもこの歌(注:春日井建の「今に今を重ぬるほかの生を知らず今わが視野の潮(うしほ)しろがね」『友の書』)を引いていたが、喜多も同じ春日井門下の一人である。今という一瞬に次の一瞬を重ねるほかない、という感慨はそのまま先の「波寄せて前ゆく波を越えざりき」につながっているようだ。(「やまなみ」2017年1月号より)


 二首目は永井陽子の「アンダルシアのひまわり」を思い出した。上の句では具体であったことが、語順を変えながら下の句では抽象になっていく。ぐるぐると思考のらせんを見るようでもある。
 三首目、はつものの梨であるから、それこそ水の湧くようなシャキっとした食感、歯触りが印象的であったのだろう。その印象が、そのまま下の句へつながっていく。「はつものの梨の歯ざわり」とア段の頭韻ですべりだした歌がいったんは転じるものの、ふたたび「はつもの」「歯ざわり」の「は」を引き受けて「はじまる秋の一日」と収まっていく。



※『いとしい一日』の歌の引用はすべて歌集『いとしい一日』(2017年、私家版)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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