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齋藤茂吉『あらたま』〈前〉(1921年)

 一面には、「光」の歌集である。

ふりそそぐ秋のひかりに乾(ほし)くさのこらへかねたるにほひのぼれり
こころむなしくここに来(きた)れりあはれあはれ土の窪(くぼみ)にくまなき光

 一首目、「ふりそそぐ秋のひかりに」という歌い出しにまず親近感をおぼえる。一首全体を見てもゆったりとしていて、『赤光』のときとはちがうどこかのびのびした感じがある。(第一歌集特有の緊迫との差、という面もあるだろう。)「ふりそそぐひかり」と「たちのぼるにほひ」とが交錯する。
 二首目これもまた「こころむなしくここに来れり」の初句字余り、二句切れにつかまれる。光景としてはどうということはないのだが、「くまなき光」を見てしまうところに「こころむなしく」の心情が映っている。

うつし身はかなしきかなや篁(たかむら)の寒きひかりを見むとし思ふ
ひとときを明るく照りしたかむらにこもるしづかさや夕づきにつつ

 大正四年、「小竹林」という一連から。二首目、「照りし」であるから、「たかむら」自体が明るく照っているわけだ。であるからこそ、「こもるしづかさ」の「こもる」感じがすっと入ってくる。「照らされし」であれば、こうはいかない。
 それかたもうひとつ。四句切れからのこの結句のやり方に、今すごくはまっていて、四句切れで一首としてはほぼおしまいに差し掛かりながら、最後にもういちど世界をぬり直すような鮮やかな転換がある。もうさいごの一声によって、世界の輪郭がくっきりしてくるような、リアリティを後押しするような結句である。

     *

 連写のごとき連作にもおどろいた。
 たとえば「お茶の水」という一連五首は一首目からすべて「蜻蛉」を詠み込んでいる。つづく「七面鳥」一連十七首では、たった一首を除いてすべてに「七面鳥」が詠み込まれている。それゆえに短い場面を描くやり方として、動画というよりもむしろ連写という印象を持った。連写の中から最高のスナップを一枚選び取るがごとくに、読者は自分好みの一首を選ぶことができる。連作のなかの一首ではあるのだが、一首だけをこれと抜き出しても十分に味わうことができるのだ。

七面鳥ねむりに行(ゆ)きて残り立つゆづり葉の茎の紅きがかなし

 そういうわけで、私はこの一首を選ぶ。
 同じ連作には「ひばの木の下枝にのぼるをんどりの七面鳥のかうべ紅しも」という歌が五つ前にあって、その「紅」が残像のごとく映っている。「ゆづり葉の→茎の→紅きが」とのぼりつめていくような韻律が「かなし」を一層強く思わせる。

     *

 もうひとつ正直な感想を言えば、いわゆる現代短歌——たとえば今、総合誌で読めるような短歌——と違わないなあ、と思ったのだった。

しんしんと雪ふるなかにたたずめる馬の眼はまたたきにけり
電車とまるここは青山三丁目染屋の紺に雪ふり消(け)(を)

 この二首がそれをまさに表している、というような二首ではないが、立ち止まらずに自然と読み流してしまいそうな二首ではあった。「うんうん、そうだよね」という、納得とかそういうレベルではない、共感に近い気持ちがあったのだ。

 かたわらに塚本邦雄の『茂吉秀歌 『あらたま』百首』(1978年、文藝春秋)がある。合わせて読むとすごく楽しい。
 先の「しんしんと」の項では、まず「馬は草食獸の中で最も美しい。」と書き起こされる。迫力があるなあ、と思う。時に初出にあたり、あるいは茂吉の自歌自解にコメントをしながら、一首がこまかく鑑賞される。

 「電車とまる」のほうについても少し引用する。(漢字は適宜新字に変換し、ルベはすべて除いた。)

私は想像する。青山三丁目界隈には葉茶屋の褐色の暖簾もあつたらう。八百屋には朱の人参も並んでゐたらう。さまざまの眺めの中から、「紺」に注目し、結果的には「青」に出藍の誉の鮮やかな幻視を内包させた手際を、それが偶然なら、なほさら抜群の言語感覚の賜物だと考へたい。「紅の茂吉」がかういふ冱え冱えとした寒色で見事に別世界を生んでゐることにも注目せねばなるまい。



 「紺」でなかった場合を想像してみて、やっぱり紺であるからこそなのだ、という批評の方法は穂村弘の「改悪例」というやり方と重なってうつるなあ、と、そういうことも思った。
 それでこの歌、私としては、結句の「雪ふり消居り」という短い言い回しに羨望のような気持ちを抱いてしまう。

     *

ちちのみの秩父の山に時雨ふり峡間(はざま)ほそ路(みち)に人ぬるる見ゆ

 上の句をゆったりと使いながら、四句に「峡間ほそ路に」と押し込めるような形でポイントが述べられる。大きな景から小さなポイントへの移行はこうやって韻律の面からもなされるのだと妙に納得する。それにしても「峡間(はざま)ほそ路(みち)に」には感嘆する。「峡間のほそ路(ぢ)に」ではポイントの提示はうまくいっても、結句への誘導は刺激的なものにはならない。「aaa/ooiii」と「aaao/ooii」のこまかな違いであるが、たとえば「路(みち)に」は三連符のやうにもひびき、また、「見ゆ」の「み」をおびきよせるところがある。そこまでしておいて、「人ぬるる見ゆ」であるから、不思議な気分になってくる。時雨であるから、「ぬるる」ってそりゃ当然でしょう、と言いたくもなるのだが、一首の形としてはそういうツッコミをさせないような情景となっている。

ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂(さび)しく降りにけるかも

 葉に/ふる/時雨の刻むような韻律が、なんど音読してもたまらない。下の句はゆったりと歌い流されるようであって、先の一首と対照的でもある。

(つづく)



※『あらたま』の歌の引用はすべて『齋藤茂吉全集』(1973年、岩波書店)に依ります。
※(  )でルビを示していますが、もとよりすべての漢字にルビがあるため、煩雑になるのを避けて、大幅にルビを省略して引用しています。
※旧漢字についても、ほとんどのところを新漢字で置き換えて引用しています。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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