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大室ゆらぎ『夏野』(2017年)〈後〉

 大室ゆらぎ『夏野』(2017年)〈前〉につづけて書く。

     *

 生き物の気配の濃い一冊である。
 それはときに死のほうから照射される生であり、また体温と体温とが呼応するところにうまれる生である。

これほどにおたまじやくしがゐるからはその四倍は出づる手と足
手と足はつめたいけれど胴体はまだあたたかいその腹を撫づ

 おたまじゃくしがたくさん居て、それらはやがて手が生え足が生えして蛙になる。おたまじゃくしがみな蛙になるとすれば、おたまじゃくしと蛙の数は等しい。「たくさん居る」感じに変化はない。しかし、「その四倍は出づる手と足」と言われてみると、あまたの手と足がうごめきひしめくさまが浮かんでくる。不気味でさえある。
 2首目、「たましひの玉藻」という一連から。「玉藻は黒猫 入院中死去 九歳」とあるので、「手」「足」「胴体」「腹」はその黒猫のものであると思われる。「つめたい」ところと「あたたかい」ところがある、という描写からは、その肉体感のリアルなところを感じると同時に、その「時」が固有であることが思われる。手も足も胴体も触れたのちに、まだあたたかい腹を撫でるのだ。生のかすかな、しかし濃い気配がある。

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 一冊を通して温度の保たれた歌集だなあ、と思う。〈われ〉のかげは幽霊のようにしたがうが、精神だけが浮遊しているようなふしぎな立ち姿をしている。

振りかへるゆふべ寒しも襟首を十二夜月に差し覗かれて

 差し覗かれて、と言われることによって月とわたしの温度はひとしく映る。二句切れのあざやかな場面転換も寒さと通じるところがある。

繰り返すよろこびはあり元旦もふとんについた猫の毛を取る

 繰り返すことのよろこびを言い、それはたてえば元旦「も」ふとんについた猫の毛を取ることだと言う。こういうスタイルは〈よろこびは遠くにありぬ白昼を砂州の薄さに浸みる川水〉(大室ゆらぎ『夏野』)にも見られる。読者はまず「繰り返す」ことの中身を思い、元旦という特別な日でさえ、ふだんと変わらず猫の毛を取るそのしぐさを思い浮かべる。

熟れ過ぎた桑の実を摘む潰さぬやうに 潰してしまふ

 四句欠落と読んだ。「潰さぬやうに」の慎重が生んだ時間だろう。いかにも沈黙がふさわしい。「潰してしまふ」はごく自然な成り行きにうつるのだ。

あたたかい犬のからだを抱き上げる立てなくなつた犬のからだを

 「ゆらぎの死」より。〈ゆらぎはダルメシアン 十三歳〉とある。「あたたかい犬のからだ」は抱き上げる動作をあいだに挟むことによって「立てなくなった犬のからだ」に更新される。これは〈わたし〉の意識であるのだが、「犬のからだ」ということばを二度使うことには、〈わたし〉の側の変化によって二度目のそれは一度目とはちがうものになっている。たとえば〈川土手にジグソーパズルは燃やされてジグソーパズルのかたちの灰は残りぬ〉(大室ゆらぎ『夏野』)という歌があり、ここにも「ジグソーパズル」が繰り返し用いられる。

     *

日本語に訳されたときホメロスに軍記物語の文体は顕つ

 このたった一首を挙げただけであれこれ言えることではないし、小池光が帯に書いた「かわりばえのしない日常生活に、ギリシャ・ローマの古典などがふと影を添えてくる。」という一文を引用するほかないのだが、生物の糸があれば、こうした古典の糸もあり、それらが織り合うように一冊となっている。
 翻訳というのは、意味内容の面ではある程度正確に書き換え得るのだろうけれど、その文章の温度や文体やリズム・テンポをどの程度再現あるいは翻案してみせるか、というのは翻訳者の腕によるのだと推測される。そういう点から一首を読めば、原文で読んでいたときには感じられなかった軍記物語の感じが訳文によって顕れ出た、ということだろうか。あるいは、訳者の意図によっていわば軍記物語風(ふう)に書き換えられた、ということだろうか。それはともかく、いまこの場においては日本語に翻訳される前と後のものが想定されていて、そこにひとつの更新があったことは確かである。そのことが「文体は顕つ」という結句にあらわれている。

 さいごまで、とりとめなく書いていく。

遠雷を恐れて帰る、小走りは日本の女のしぐさならむよ

 遠くのほうで雷が鳴っていてじきこっちにもやってきそうなあやしい雲行きである。はやいとこ家に帰ろうと小走りになる。思いっきり走ってもいいところを、小走りである。着物をきていれば大股では走れない。そのころに身についた姿勢だろうか。あるいはそういう姿勢になるように着物が作られたのだろうか。全くの想像で何も言えないのだが、「小走りは日本の女のしぐさならむ」と言われたときに想像できることはいくらでもある。姿勢が精神をつくるし、精神が姿勢をつくる。

花のうへに花は積まれて腐りつつ土手へとつづく日ざかりの道

 ひとつ前に〈野づかさの墓地のはづれに束のまま捨てられてをり枯れた仏花は〉(大室ゆらぎ『夏野』)とあるので、そのイメージを引き受けて読む。まえに供えた花をのけて新しくもっていきた花を供える。古い花はその辺に積まれたままになっているのだろう。枯れる部分もあるが、水につけているので腐るというほうがあのじめっとした空間をも想像させてくる。

終日を黙つて過ごすにんげんがことばを持つて七万年後

 にんげんがことばを獲得し、それを使い、いろいろのことができるようになり(またできなくなり)、ともかくその突端の今日のひと日を黙って過ごす、ことのふしぎはなんだろう。いや、別に何も話さない日があったっていいわけだが、こういう時間のスパンで言われると変なことのようにも思われる。ことばはこれからどうなっていくのだろう。
(おわり)



※引用はすべて歌集『夏野』(2017年、青磁社)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。歌集に『温泉』(2018年)がある。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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