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奥村晃作『八十の夏』(2017年)

 違和感のある口語がかえって魅力的とも言うべき、不思議な味わいの歌集である。その口語というのは、ひとつには助動詞の部分で「だろう」「あろう」「た」などを用いて一首が締めくくられる。もうひとつは名詞の部分で、いわゆる俗語というのか、くだけた表現が放り込まれる。助動詞にしても名詞にしてもどこか突拍子もなく出現するのだが、その唐突な感じが歌をいい意味で不安定にして読者を揺さぶる。そんなことを思った。

     *

 前から順に読んでいく。

白鳥は全身マシロ黒鳥は全身マクロ羽根の部分が
包丁の刃を石に研ぐ一定の角度を保ち三度に分けて

 それぞれの結句「羽根の部分が」「三度に分けて」が一見つけたしのようで、つけたしにとどまらない。はじめは「全身」がベタッと「マシロ」あるいは「マクロ」に塗られているのだが、「羽根の部分が」によってもうすこし繊細な様子を見せてくる。「包丁の刃を石に研ぐ」とまず大きく言っておいて、「一定の角度を保ち」ともう少し細かい情報を継ぎ足す。さらに、「三度に分けて」と足すことで、場面は動き出す。
 たとえば〈三本のキュウリの苗を庭土の床(とこ)に植えたり等間隔に〉(奥村晃作『八十の夏』)という歌も同じような結句の置き方であるが、掲出の二首のほうが精度が高いように思う。「等間隔に」は割と予想できるが、「羽根の部分が」「三度に分けて」は想定外だ。その想定外によって、読者の景色は塗り替えられる。
 もちろん「等間隔に」にしても、そこを空欄にして当てるようなことは困難であって、「等間隔に」と言われることによって景色はより確信めいたものになる。ただ、「塗り替えられる」まではいかない。ピントが合う、くらいだ。それに比べると、ここにあげた2首は結句によって「塗り替えられる」。

十階のビル屋上のその縁(へり)にサルは平気で坐るであろう
ゾウを見てゾウさんと呼びトラを見てトラさんとふつう人は呼ばない
シロクマは白、エゾヒグマの体は黒、パンダは白に黒が混じれり

 「パンダは白に黒が混じれり」という一連から。
 1首目、確かにそんな気がする。具体的な「十階」「縁」が歌をリアルなものにしている。この「であろう」はしかし不思議な気分をもたらす。〈八十の我が見上げる老い杉は数百年後も生きるであろう〉(奥村晃作『八十の夏』)のように、歌集のなかにはしばしば出現する表現である。「そんな気がする」くらいのごく軽い推量なのだろうか。
 2首目、これも確かにそんな気がすると頷きかけて、いや、そうでもないかもしれないとも思う。たしかに「ゾウさん」には何も感じない。(まどみちおの「ぞうさん」がしみついているからかもしれない。)「トラさん」も言いはしないが、どうぶつの絵本なんかがあれば、ゾウはゾウさんで、トラはトラさんのような気もしてくる。きわどいラインだ。そこを「ふつう」でクリアしている。
 3首目、これはなんだろう(笑)。シロクマは白、の時点ではここから何が始まるのかわからない。エゾヒグマの「体は」黒にいたって始めて、このまま体の色の話でいくんだな、とわかる。これもある種の「塗り替え」だ。白、黒ときて、何で着地するかと思えば「パンダ」である。ここにシマウマとかが入ってこないのが歌の統率ということなのだろうが、読後感はふしぎである。

     *

 歌集の帯に「観察者の視線が益々冴え渡る。」とあるが、大げさではない。

山々に囲まれて広き湖の全水面をバスに見下ろす
大晦日荒川の水静かにて動かざること池の如しも

 1首目、バスでゆく山路である。ぱっと視界が開けたのか、湖の「全水面」を見得た。おそらく一瞬、あるいはしばらくのあいだのことだろう。また木々に山々に隠れて見えなくなってしまう。全容を見ることができた感動である。全容がわかっていないうちにも、それが広いことは薄々感ぜられる。山路にちらちらと湖らしきものが見え、あるいは地図で湖があることを知ることもできる。全容はいかなるものかと気になる。気になりながらあるときわっと視界が開ける。「全水面」という一語でそれを言い得た。
 2首目、「風林火山」ふうの言い回しである。川と池で、近いなあとも思うのだが、ふだん「動」を見ている荒川のことさら静かなさまを「池」といったところに感じが出ている。水の貌というのはふしぎなもので、動きや時間帯や季節によって湖は港のようでもあり、また川は池のようでもある。「大晦日」、元日の前の妙なしずけさ、なにかこもっている感じで歌いだされるところも見逃せない。

メキシコ産ウーパールーパー真っ白の体(たい)で四足(しそく)を漕ぎつつ進む
てのひらの米粒食いに来る雀次々に来て米粒を食う

 1首目の「メキシコ産」「真っ白」がウーパールパーのイメージを与えつつ、さらにその動きぶりを下の句が伝えている。ウーパールーパーの解説のようでありながら、それをとらえるレンズはどこかふつうでない。ウーパールーパーを既知のものとはせず、見たままを述べるところから生ずるものだろう。
 2首目、下の句にはおどろく。上の句と情報的には大差ない。しかし、これもまず静止画的に状況を伝え、のち、それを動かす、という意味では「塗り替え」であるし、あるいは1首目に通ずる部分もある。

     *

 音読してたのしむ、というのもひとつの味わい方だと思う。自分のこととして発してみてしみじみおかしくなってくる。じわじわとたのしいのだ。

自分なら投げるべき碁を投げないで最後まで打つ相手に負けた

 カルガモはじめたくさんの鳥を観察し、池や公園を散策し、また運動にはげむ。

自己流の体操ののちグランドを歩く速度で一周駆ける
ただ一羽池にし棲めるカルガモの小ぶりなる身が水面(みなも)に浮かぶ
カルガモの生育早し生後まだ数日なれど親を離れて

 1首目は「自己流」「歩く速度で」がまぶしい。2首目、とくに下の句の波打つような韻律がここちよい。3首目、日々観察する目がないとこうはいかない。思えば定点観測という時間の使い方は現代にあっては稀有なことかもしれない。

暑からず寒からず良き気温なり夜中に目覚め手足を伸ばす

 夜中に目覚め、暑ければ飲みものを飲んだり窓を開けたりできる。寒ければ一枚着るものを増やしたり毛布を足したり暖をとったりできる。「暑からず寒からず」ではとくになにもないはずが、「良き」気温と感受されることによって、「手足を伸ばす」という動作がうまれた。見逃さないなあ、と思う。



※うたの引用はすべて歌集『八十の夏』(2017年、六花書林)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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