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花山多佳子『春疾風』(2002年)

 第6歌集である。はるはやち、と読む。

深みあるいろと思ひて朝床に腕の打ち身のあとを見てをり

 こんな一首で歌集は始まる。
 まず「深みあるいろ」と思って、それから「打ち身のあと」であることを確認し、それをしばらく「見て」いる。認識の順序どおりに歌が構成されていく。
 「打ち身のあと」と眼前にある「深みあるいろ」がはじめは直には接続されず、それゆえに、打ち身のあとであるにもかかわらず(といか、そんなことはおかまいなしに)「深みあるいろ」とまるで紅葉を眺めるような、あるいは立派な陶器を鑑賞するような、すなわち大きく言ってプラスの形容が生まれる。
 おもえば花山多佳子の歌には、どこかツッコミを入れたくなるような認識や述べ方が見られる。
 そのことをまず端的に思った。

 同じ連作からもう一首。

きのふより今日はつづけり硝子戸と障子の間(あひ)に蜂は疲れて

 これはおそらく、先の一首とは逆のつくりで、まず三句以下の状況があって、そこに初二句の感想がうまれている。であるが、そうは述べられない。まず、「きのふより今日はつづけり」と言われて、それはそうなのだが、わざわざこう言うには何かあるはずという予感を胸につづきを読んでみれば、昨日から居るのだろう、硝子戸と障子の間を出られずにぐったりとしている蜂がいるではないか。逃がしてやることもせず、また自力でも逃げ得なかった蜂を「疲れて」と言うのはなるほどまさにそうだなあと思う。
 ここでふと、「先の一首とは逆のつくりで」というのは本当にそうだろうか、と疑問がわく。
 確かに認識の順序で言えば逆なのだが、歌としての差し出し方は全く同じではないだろうか。いずれの歌も、「認識の順序」と「歌における叙述の順序」を操作することによって、読者を立ち止まらせる。ツッコミというのは、順序の操作から発生する違和に対して放たれているのだ。

     *

 ふたりの子ども――姉と弟――の歌からも目が離せない。息子、娘がそれぞれキャラクターゆたかに描かれる。もちろん、二人のやりとりも魅力的なのだが、この歌集でことさら目を引くのは息子の言動である。

そのへんに置きし珊瑚のペンダント戻れる息子の胸もとに垂る
おかあさんおやすみなさいと甘き声に息子言ひて去る何のつもりか
火をつけず吸ひし煙草が一日に四、五本息子の灰皿にある
ドラムのごとくラップの唄が近づきてはや眼前に息子の顔ある

 1首目、そのへんに置いておいた珊瑚のペンダントがなぜか息子の胸に灯る。2首目、歌集を読む中で「何のつもりか」と言いたくなる気持ちがよくわかる。切れたり甘えたり、机をスプレーで染め、髪のいろは様々、ピアスを通す耳の穴に文句をつける息子である。3首目、わたしの知らない煙草の吸い方だ。4首目、「はや眼前に息子の顔ある」の迫力がすごい。

微に入りて息子が語る出来事はなべて虚言とこのごろ気づく
停学になりたる息子ことさらにうろたへゐたり愉しむごとく
強く言へばこのごろは息子が退(ひ)くことに気づきたりああ時は流れる
何故オレはこんなに腐つてゐるんだらう口先だけで息子がほざく
オレ浅い人間かときく浅いよと言へばテメエだつて浅いと切れる

 そんな息子に対しては「なべて虚言」と見放し、「愉しむごとく」「口先だけで」と見透し、それでも「ああ時は流れる」。ふつうの反抗期というか、少年・青年の成長過程というか、そういうものなのだろう。それがこんなにも面白い。4、5首目は歌集もおわりの同じ連作から引いた。まだま応酬はつづきそうだ。

一つ二つ音を違(たが)へて娘(こ)が鳴らすギターの「ペチカ」われを泣かしむ
〈柿死ね〉と言つてデッサンの鉛筆を放り出したり娘は

 続いて姉(娘)。
 1首目、雪の降る夜はたのしいペチカ……の「ペチカ」である。クラシックギターだろうか、ペチカを囲む談笑のような時間でもあり、母と娘だけ(だろう)のしんみりとした時間でもある。音がちがうところがある、そのときどきにわたしはペチカの世界から現実の物理空間へ引き戻され、この現実に涙する。
 2首目、〈柿死ね〉/と言つて/デッサンの/鉛筆を放り/出したり娘は、と読んだ。〈柿死ね〉、という台詞は字面だけ見ると意味不明だが、柿のデッサンに難儀していたのだろう、思わず柿に向かって死ねと発せられたのだ。あるいはこうも読める。〈柿死ね〉と/言つてデッサンの/鉛筆を/放り出したり/娘は、と。結句の大幅な字足らずである。唖然としているさまが浮かぶ。

出かけむとして又くたくたと甘え寄るあと二ヶ月で二十歳のむすめが
美大予備校休日なれば夕がたまで眠りし娘死にたいよと言ふ

 姉と弟の喧嘩あり共謀(?)ありの関係もたのしく読んだ。

諍ひののちは互みに油断せず大切な物隠しゐるらし
徹夜明けの姉おとうとが将棋打つ音の忙しも襖の向かう
「ココアでも飲む?」といふ声聞こえきて夜を明かすらし姉と弟

     *

曇天ゆ並び来て同時着陸せし二羽は異なる鳥にぞありける

 ゆ、せし、にぞありける、と古語でばしばしせめてくる感じがたまらない。「同時着陸」す、という複合動詞にもおかしさがにじむ。

夕方になりて三日分の陽がさせり葉桜へのぼる堀みづの匂ひ

 三日分の、というのは実感なんだろうなあと思う。ここのところ陽が差していなかったのが、夕方やっと陽がさした。葉桜のとき、初夏である。みづの匂いも濃くなる。

春雷はとほくこもりてくらやみと埃の部屋に父のぼりゆく

 のぼってはいけないところへのぼる、どこか畏怖の存在として父が見える。「くらやみと埃の部屋」というのはおとぎ話というかメルヘンチックなところがあって、どうも父の姿は幻にうつる。

あまたの靴に並べ置きたるわが靴の会合果てて足に合はざり

 だれかがまちがって靴を履いていってしまったのだろう。ときどき起こることだ。しかし「足に合はざり」という冷静は実感を伝えている。呆然ということだろう。

夕光るサッシの扉(ドア)に自転車の影を置きたりわが戻り来て

 四句切れのあとの結句にしびれる。情報としてはなにも足されていないのだけど、自転車さえ「影」であったところに、ぬっと実体があらわれる。

おのおのの葉むらのかたち枝のかたちにつもりて已みぬ三月の雪

 前後の歌から息子の卒業式の場面とおもう。「おのおのの」というのはだから、そこに集まった人それぞれの、というのを引き受けている。「葉むらのかたち枝のかたちにつもりて」というのも、そこで過ごした時間やそこを通過することで溜まっていったものを想像させる。それも今日のこの日で終りだ。三月の雪のあとの日々へ、それぞれが歩き出す。

     *

 歌集をめくると、さびしも、さびしさ、さびしき、という結句がちらほらある。その中から一首。

赤み帯びてつもる落葉も夜(よる)は見えずベランダに湯上がりのこころさびしも

 湯上がりのわれだけが、ホカホカとこの世にあるようなさびしさがある。

 最後はうれしい歌を。

除湿器に三十分ほどで溜まりたる水捨てにゆく何かうれしき



※『春疾風』のうたの引用はすべて現代短歌文庫133『続々 花山多佳子歌集』(2017年、砂子屋書房)に依ります。
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コメント

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Re: タイトルなし

こんにちは。
お読みくださりありがとうございます。

> ・そのへんに置きし珊瑚のペンダント戻れる息子の胸もとに垂る
>
> →この歌ってそのへんに置いてた(はずの私の)珊瑚のペンダントを息子がつけて出かけていた(からびっくりした)という歌なんじゃないかな、と読んだんですが…

ご指摘のとおりで、びっくりしました。わたしは何を思ったのか、「そのへんに置いていた(お土産かなにかの)珊瑚を、自らペンダントに仕立てて外出していた」と読んでしまったのですが、おそらく珊瑚とペンダントが全く結びつかなかったんだと思います。

> ・諍いひののちは互みに油断せず大切な物隠しゐるらし
>
> →「い」の消し忘れ?

確認し、修正しました。

> ※『春疾風』のうたの引用はすべて現代短歌文庫133『続々 小池光歌集』(2017年、砂子屋書房)に依ります。
>
> →引用元は
> 現代短歌文庫133『続々 花山多佳子歌集』(2007年、砂子屋書房)
> ではないかと…

これも確認し、修正しました。初版発行2017年7月28日のようです。

> まだ最新のこれしか読んでないんですが、楽しみにしています。

のんびりなのでたまの更新になると思いますが、ときどき楽しんでもらえたらと思います。

コメントありがとうございます。
うれしかったです。

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Re: タイトルなし

いえいえ。こんごともよろしくおねがいします。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。歌集に『温泉』(2018年)がある。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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