FC2ブログ

小池光『山鳩集』(2010年)

 まず一首。

世界遺産となりたるのちに知られたる白神山地が人生の手本

 これまたすごい結句である。結句にいたるまで何が言われるかわからない。いや、「なりたるのちに知られたる」というタル・タルの韻律をくぐりながら、なんとなく、「不言実行のよさ」みたいなところが言われんとすることは推察できる。その期待をはるかに上回る「人生の手本」である。読者の予想するいきおいを力にかえて大きく出て一首と成った。

 もうひとつ。

皿の上に寿司乗つて寿司にこにこと近づいてくる 人生は漫画

 人生は漫画! 同じ結句のインパクトであっても、先の一首とはすこし種類がちがう。「にこにこと」あたりで何か来るなあ、ということは感ぜられるわけだが、人生は漫画とは。一字空けでしっかりタメを作ってから放り込まれるこの結句には驚く。隠喩の迫力でもある。人生は漫画のごとし、ではそういう見方もあるなあ、くらいで流れてしまうところを、体言止めで言い切る。そうすると、なにかこちらが考えなくてはならないような気がしてくるのだ。
 回転寿司屋に来ていて、やってくる寿司を見ながらふと「漫画かよ」とツッコミを入れてしまう。翻って人生は漫画、と。ふしぎな味わいの皿だ。

 さらにもうひとつ。

ネジ巻けばただちにうごくピカチュウよ喘ぎ喘ぎて人は生くるを

 漫画、アニメのなかのピカチュウ。「ネジ巻けばただちにうごく」という歌いだしのあやしさは、下の句の結論がまずあっての見方だろう。しかしこれが歌のうえでは逆転している。そうでないと読んでいてつまらない。なぜならば、「喘ぎ喘ぎて人は生」きるという結論はさして新鮮なものではないからだ。であるから、歌のはじめにそんなことを言われても先へ期待がもてない。順序が逆になることで、「これはあやしい」「なにかあるぞ」と思いながら先へ読み進めることができる。
 しかしネジ巻き式のピカチュウ(のおもちゃ、と思うが)の動きも、なかなかに喘いでいるようにも思われる。結句の「を」というのは逆接の接続助詞なのだろうが、必ずしもそうだと言い切れないところがある。そのちょっと微妙な部分も含めてこの歌の読みどころなのかもしれない。

     *

竹の子はわれに食はれて竹とならずかかる結末の幸か不幸か
まぐろの赤身こねくりまはし食へといふああ「カルパッチョ」毛唐の鈍麻(どんま)

 食べものの歌がおもしろい。茂吉も食べものをよくおいしそうにえがいたが、小池節とでも言おうか、小池光の場合は独特の物言いがひかる。
 1首目、竹の子の「子」という言い回し(ほかにも「親子丼」「数の子」など)に立ち止まり、子であるからやがて育って竹となる、ということへ思いを至らせている。そうすると、いま目の前にある竹の子も、ここでこうして食われるか、はたまた無事に生き延びて竹となっていたか、運命というか竹の一生というものを考えてしまう。「竹とならず」の時点ですでに「おもしろい」香りがありながら、下の句ではそれをまるごと引き受けて、真面目に収めている。これによって、またちがった種類のおもしろさが付加されている。
 2首目、これにはおどろいた。「毛唐の鈍麻」まで言うかなあ(笑)。ともかくこれも「こねくりまはし」の時点で嫌な予感はしていて、その期待をはるかに超えて結句がある。そう言われてみればカルパッチョというのはふしぎな食べものである。カルパッチョとの対峙の新鮮な感じがある。

     *

 「最後の終業式」という一連がある。

おーい列曲がつてゐる、と言ひかけて眼(まなこ)閉ぢれば春の日はさす

 長く物理を教えていた氏である。その最後の年の終業式の場面だ。ひとつ前に、〈金ボタン五つづつある学生服 ああいちれつにクラス生徒並ぶよ〉とある。
 「おーい列曲がつてゐる」というのはよく口にしてきたことばだろう。体育館などに集まってクラスごとに整列する。「ほらそこ一人出てる」とか、「うしろのほうばらばら」とか「しゃんと並べー」という声がきこえる。
 「と言ひかけて」なので言ってはいない。なんでもない台詞がなにか感情のスイッチを作動させたのか、口をつぐむ。いろいろのことが思い出されたかもしれない。
 下の句、眼を閉じる。そのまぶたを通じて春の日のあかるさが身に沁み入る。なんとうつくしい光景だろう、とおもう。眼ひらけば春の日はさす、ではないのだ。教師として過ごした日々のあれこれの一切がここにあつまって春の日差しとなっているかのようである。

足のうらおのが手のひらに撫づるとき旧友交歓さながらにあはれ

 津軽への旅のなかの一首、温泉宿でのひと場面である。
 ふだんとはちがった時間の流れが、ふと、足のうらをさすり撫でさせる。こういう足裏であったか、と自分のことなのに妙な感慨がある。旧友交歓さながら、というのも頷ける。
 一首のゆるやかな調べのなかにさしはさまれたキュウユウコウカンのひびきはどこか楽しげである。

     *

日本の難訓駅に驫木ありいまぞ停まれるそのとどろきに

 この歌は歌材もさることながら「いまぞ停まれる」に小池光を感じる。
 驫木あり、という「4音+あり(なし)」型の三句でひとつ存在感を出しながら、それをバネににして係り結びで四句を締める。〈たくさんの鉢をならべて花植ゑし人は世になし鉢ぞ残れる〉(小池光『思川の岸辺』)の「鉢ぞ残れる」のすごみに近い。いま、その驫木駅にいることが力強くせまってくるのだ。結句は驫木の読み方を(ルビを使うのではなく)さりげなく伝えている。読者としても、まずは「難訓」を体験し、そののち答え合わせができる。ルビをふるのではそうはいかない。と同時に、駅の立看板や柱には必ずひらがなで駅名が書かれてあって、そのさままでも浮かんでくる。

モーゼに十戒あり ゐのししに八戒あり 三蔵法師のしもべ

 これも歌材としては「十戒」と「八戒」のダジャレというか取り合わせというか、そのところにある。
 モーゼに十戒あり/ゐのししに/八戒あり 三蔵/法師のしもべ、というふうにまず初二句をひとつづきに読み、字足らずのあいまに息を吸い直して三句「いのししに」、四五句「八戒あり 三蔵法師のしもべ」と句またがりをのりこえて読んだ。内容はたいしたことないのだが、これもリズムで読まされる。

     *

 やまなみの全国大会でお会いしたNさんが、しばらくお目にかからないうちにすごく痩せられていておどろいた。その場では声もかけられず、夜の二次会でおそるおそる訊ねると病気で入院していたという。
 こんなこともあった。二十歳の同窓会でのこと。その晩はすっかり酔いつぶれて明朝まで寝こんでいたところを、中学三年のときの担任の先生が訪ねてくださったのだ。学年主任で、だれよりも腕相撲がつよく、元気な女性の先生だった。それがすっかり痩せられていておどろいた。笑顔をかえすくらいしかできなかった。
 ——そういう経験があるものだから、次の歌の下の句にはふかく頷く。

こんなにも痩せたる猫の背を撫づる痩せることよりかなしきはなし

 猫の背を撫でれば肉付きがダイレクトに手につたわってくる。かなしみはいっそう深い。

宮城道雄口述筆記の随筆よりことばの珠(たま)はころがり出でつ

 下の句、手放しの称賛である。宮城道雄を読んだことはないのだが、その随筆にほれぼれしていることが伝わってくる。



※『山鳩集』のうたの引用はすべて現代短歌文庫131『新選 小池光歌集』(2017年、砂子屋書房)に依ります。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR