凡フライ日記

山下翔と短歌

実感から遠くなる言葉 -1-

(1)実感から遠くなる言葉

 自分の記録のため、という場合を除けば、言葉にするという作業の凡そほとんどは、何かを伝えるため、という目的を持つ。それは短歌においても変わらない。日記として短歌を詠む人もあるが、そうでない場合は、自分が見たもの、感じたものを誰かに伝えようという意識が少なからずあるはずだ。
 しかしこのことは多くの場合、無意識のうちに行われる。すなわち、何かを伝えようという強い目的意識があって歌が作られるのではなくて、歌を作るということそのものに、何かを伝えるという要素が自動的に組み込まれているのだ。それゆえ言葉の斡旋に失敗する、ということが起こる。

 そもそも何かを伝えるために、その手段として「言葉」を使うのは、それは言葉を知った時からずっとのことである。しかし単に感情をそのまま言葉にするだけでは伝わらない、ということに気づき始め、誰かに伝えるための言葉、つまり表現方法というものを身につけてゆく。
 例えば初恋。この好きという気持ちをどう伝えれば、相手に届くのか、ということを考える。こう言ったらこう思われるかもしれない、この言葉では相手にわかってもらえないかもしれない、ここまで言うと逆に引かれるかもしれない、などと言うことを考えるわけだ。したがって思春期というものは、<誰かに何か自分の思いや考えを伝える>ことを特に自分の問題として意識し、乗り越えようとする時期でもあるのだ。
 ここではかなり意識的に言葉をつくることになる。しかし逆に言えば、こういう一大事でもない限り、意識的に言葉を選び、それを吟味して表現する、ということはなされない、ということにならないだろうか。
 だから作歌においては、いうまでもないが、よく言葉を吟味し、選択し、配置しなくてはならない。

 作歌の難しさというものは、そういう言葉の斡旋にあるのだが、もっと初歩的なことを言えば、実感を言葉にする、ということがそれなりに大変なのだ。
 一つの言葉で実感を表現するのはほぼ不可能であるから、いくつかの言葉を用いることになる。そうすれば言葉同士の交わりもでてくるであろう。あるいは、実感をそれらの言葉で被覆し得るとも限らない。だからと言って、大雑把な、全体を包むような言葉を用いれば、実感の繊細さは失われてしまう。
 こうして、言葉にしようとすればするほど実感から遠くなるのだ。だから、あー遠くなっているなあと思いながら、たぐりよせ、また離れを繰り返しながら歌を作っていかなくてはならない。
 作歌とは、実感を誰かに伝えようとする意志である。その意志に自覚的であるときはじめて、実感と言葉の、あるいは作者と読者の距離感をはかろうとする意識が芽生える。実感から遠くなる言葉をたぐりよせ、そして丁寧に(ときに大雑把に)実感を被覆してゆくことが、短歌を作るということなのだ。
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