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1首鑑賞110/365

旅人もあけびの蔓もえんぴつも 流れた 川でまるくなる砂
   安井高志『サトゥルヌス菓子店』

     *

旅人が流れ、あけびの蔓が流れ、えんぴつが流れ、そういうふうにいろいろなものが流れたこの川、あるいは川というもののその中で、時間をかけてまるくなっていく砂、というものを一読おもいうかべた。気になることはふたつあって、ひとつは「流れた」の前後の一字空け。もうひとつは「砂」。

ひとつめの「流れた」の前後の一字空けについて。旅人もあけびの蔓もえんぴつも、とわりあい滑らかに上の句があって、そのながれのままに「流れた」がくると、「流れた」というよりも「流された」という感じがする。いままさに流れている、というよりも、「流れたことがある」とか「流されていた」というような説明のニュアンスがうまれるというか。そうではなく、一字空けることによって、一回一回の「流れた」場面が次々に映像として浮かんでくる。後ろの一字空けも、「流れた川」というふうに「川」を修飾する「流れた」にとどめないはたらきがあるようだ。旅人も、あけびの蔓も、えんぴつも流れた。流れていった。その一瞬一瞬。そして流れてどこにいったか。どこまでもいったか。どこかにとどまっているか。あるのは「流れた」というその瞬間のみ。それに対して「砂」というのは流れ流され削られてしだいに丸みをおびてくる。

そこでふたつめの「砂」なのだが、わたしははじめ「石」だとおもっていて、それで、石は流されたその一瞬よりも、そののち、丸みをおびて遠く流れていったり、堆積したり、長い時間の映像として読んだ。「砂」までいくと、「まるくなる」とかそういうレベルを通り過ぎているようにおもう。「旅人」や「あけびの蔓」や「えんぴつ」のサイズ感からおのずと「石」と読んでしまったのだろう。だが、さきほど時間の対比を読んだことを思い返せば、ここにはサイズの対比を読むことができる。やはり「石」ではなく「砂」なのだ。大きなものの一瞬と、小さなものの永遠。それを「流れた」が取り結んでいる1首とおもう。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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