凡フライ日記

山下翔と短歌

生きることと領域

 生きている間に触れられる、実際に訪れることのできる、主に生きる、あるいは遠くに感じることのできる領域はおそらく限られている。そしてその限られた領域の中で、誰もが、人には見せない領域を生きる瞬間をもつだろう。その闇とも光とも呼べないような、みどりいろのどろどろとした領域を、時々大事に守ったり、自ら傷つけたりしながら生きていくのだと思う。

・海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり
     寺山修司『われに五月を』

 海を知らない少女に、海はこんなにでかいんだぜ、と両手を広げている。しかしそれは、自分の領域としての海である。だからこっちへ来いとはいざなっていない。
 三好達治は『郷愁』の中で、「―海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がいる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」と言っている。母を知らない、という歌に、永田和宏のものがある。

・母を知らぬわれに母無き五十年湖(うみ)に降る雪ふりながら消ゆ
     永田和宏『百万遍界隈』

 母を知らぬがゆえの湖だろうか。音では「うみ」なのだが、そこに降ったそばから消えてゆく雪を見ている。大きな<生>と<消>の中にあって、母のいない五十年が、その大きな構造の中では些細なことのようにうつる。うつるのだけれども、それだけのことではない、という重みがある。
 母と別れた、という記憶がないことは、それだけで一種の救いのようでもある。母といた時間があったからこそ得られる別離の悲しさや心細さはないのだから。そこに降るのは雨ではなく、雪なのだ。

・声あらぬ小学校に雪ふれり降れ、降るものを白く覆ふなら
     黒瀬珂瀾『鱧と水仙「水を送る」』

 東日本大震災から二年半が経った。テレビや新聞で震災のことを知っても、自分の身の回りに大きな変化がなければ、それは「大変だったこと」をこえる実感をもたらさない。
 雨は、流してくれる。流すということは、そこではないどこかへ押しやる、ということだ。全体の大きな構造の中で希釈され、なかったことのようになる、というだけである。雪は、積もって覆う。そのおかげで、一時的には見えなくなる。希釈に時間がかかるのならば、覆われて隠れる悔しさだって仕方ない、とは言いきれないが。

・雨はふる、降りながら降る 生きながら生きるやりかたを教へてください
     藪内亮輔『短歌(角川/2012.11)「花と雨」』

 生きる、ということは、単に時間が経過するだけではない。呼吸しているだけでもなく、ただそこに在るだけでもない。大きな構造の中で、しかし非常に細やかに動かなくてはならない。ときどき来る大きな揺れは、だから怖い。怖いけれども、それを己が領域だと認識し、時々はわがうちを見ることをやっていかねば、ただ怖いだけで終わってしまうのだろう。
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