凡フライ日記

山下翔と短歌

第7回 枕詞

 手紙の書き出しには、季節の挨拶をもってくることが多い。何を書くにしてもそうだが書き出し、というのが一番難しくて、書き出すことさえできればあとはその流れで書けるのに、と思いながらうんうん唸って原稿用紙に向かっていた小学生の頃の、作文の時間などを思い出す。
 季節の挨拶、という一つの形式が、手紙を「書き出させる」役割を持っているのだろう、と思う。それに似た、という風に個人的にはそう思っているものとして、短歌における<枕詞>がある。枕詞は基本的に5音で、ある特定のいくつかの言葉を導く。

・あからひく朝青龍(あさしやうりゆう)のかなしみはモンゴル語にてその身に満つや
     大松達知『ゆりかごのうた』

 あからひく、が枕詞にあたる。赤みを帯びるという意味から、「朝」「日」「肌」などにかかるとされる。ここでは「朝青龍」(の朝)にかかっているわけだが、言ってみれば、こういう使い方もアリなのだ。
 朝青龍はモンゴル出身の相撲取り。日本に暮らし、日本で活躍しているわけで、もちろん日本語も話す。けれども言葉というのは文化や風土と切り離せないところがあって、育った国の言葉、というのがそのまま感じ方につながっていく。
 たとえば日本では小学校高学年から英語を習って、高校、大学までずっと英語をやり続けるけれども、それでも多くの人は、日本語で感じ、日本語で発想する。それと同じことだ。

・あかねさすIKEAへゆこうふたりして家具を棺のように運ぼう
     岡野大嗣『サイレンと犀』

 あかねさす、は茜色に美しくかがやくという意味から、「紫」「昼」「日」「照る」「月」「君」などにかかるとされる枕詞。イメージは先のあからひくに近いのだが、美しいとか、かがやくといった感じが「IKEA」にかかっている。
 つまり単に、照明によってあかるくなっているだけではなく、そこには家具があって、その先にはそれぞれの人の暮らしがある。暮らしてゆこうとする明るさ、美しさ、かがやかしさがあるのだ。
 それが一転、「棺のように運ぼう」とくる。この結句が、一首に緊張感を生んでいる。

・ゆうぐれが去るのを待ってぬばたまの洗濯槽に魚をあらう
     吉岡太朗『ひだりききの機械』

 「ぬばたまの」は、「黒」「髪」「夜」などにかかる枕詞だ。そこからさらに、「一夜」「昨夜」「今宵」など夜をあらわす言葉、あるいは転じて「妹」「夢」「月」などにもかかるとされる。ぬばたま(=射干玉)とは草の実のことで、それが黒くて丸いことからきている。
 この歌の場合、「ゆうぐれが去るのを待って」が「ぬばたまの」を導いている感じ、もある。つまり全体的に夜の、あるいは暗いイメージがあって、夜になったら洗濯槽で魚をあらう、という印象的な動きがあらわれる。何か、見られてはまずいことをしているような雰囲気があって、けれども決してふざけてやっているわけではない、という落ちつきがみえる。

・いつまでも裏返されぬぬばたまのオセロの駒のあぱるとへいと
     黒瀬珂瀾『空庭』

 ぬばたまの(黒の)オセロの駒、という感じだろう。つまり、オセロ盤の上で展開される攻防――白と黒の鬩ぎあい――に世界の情勢を重ねてみているのだ。アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国の有色人種差別政策。1991年に法的には全廃されたが、「いつまでも裏返されぬ」まま白優勢が続いている状況、それを「あぱるとへいと」という表記に託したのだ。
 もちろんその反転だって、ある。
 いくつもの重層的なイメージが不穏な感じを漂わせている一首だ。そしてそれは、枕詞そのものが、用いられることによって喚起するイメージを濃厚にしてきた感じと重なってもみえてくる。
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