凡フライ日記

山下翔と短歌

第6回 遠くをおもう2

 ごく近いものにたとえば触れながら、遠くのものを「おもう」方法を考えていた。今回は栗木京子の『しらまゆみ』から3首ひろってみる。

・無塩バター四角く冷えてゐる夜に離れて暮らす息子をおもふ

 これは直接手を触れているわけではない。けれども「無塩バター」は手に届くところにある。無塩の後ろに無縁を感じるのは大げさだろうか。そこまではいかずとも、「無塩」であることの味気なさとか、物足りなさのようなものが伝わってくる。互いに触れることのできないもの同士のわたしと「無塩バター」。それがわたしと「離れて暮らす息子」に重なる。

・生牡蠣を大根おろしに洗ひつつ処女にて死にしヒロインおもふ

 生牡蠣にグロテスクさがある。大根おろしで洗うのは、そういうやり方があったように思う。汚れをとるためだったかな、定かではない。ともかく特に突飛なことをやっているわけではないのだが、字面だけ追っていると、穏やかではない光景のように見えてくる。そしてその勢いのまま、「処女」のまま「死」んだ「ヒロイン」がでてくる。上の句の危うさを「処女」が引き継いでいるのだ。そしてその「処女」もまた、ひとつの届かなさのように思う。

・紅茶積むまま難破せし船おもふティーバッグの糸引き上げながら

 上の句と下の句の倒置によって、まず、<いま、ここ、でない>が提示されている。そこからぐーっと<いま、ここ>へ引き戻されるのだが、その感じと、「ティーバッグの糸」を「引き上げ」る動きが少し重なる。とは言え、下の句の動作が呼び起こすのはやはり、難破した船を引き上げる仕草そのものだろう。小さなティーカップの前では、神の手にもなるのだ。<いま、ここ>が<いま、ここ、でない>とはっきり一致するかのような錯覚である。
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