凡フライ日記

山下翔と短歌

第3回 短歌的な「の」3

 前二回、特に意識したわけではないのだが比較的新しい歌ばかり挙げたようだから、時期的に古いものもいくつか挙げたい。というのも、いわゆる短歌的な「の」が、いつぐらいから使われ始めたのか、あるいは、どのような変遷をたどってきたのかについては、改めて探ってみる必要がある。そのきっかけくらいにはなるだろうと思ってのことだ。

・帰り来てまづ掌を洗ふならはしのこころやさしいけものとおもふ
     永井陽子『なよたけ拾遺』

 帰宅するとまず手を洗う、その習慣に「こころやさしいけもの」を見ている。人も獣には変わりないが、「こころやさしい」獣なんだと。
 前回は上の句から下の句へ<高→低>と流れたが、この歌では<低→高>へと自然な展開になっている。その分、具体的なところからどれだけ発展できるかが、歌の印象に関わってくるようで難しい。むろん、それだけならば1回目に挙げた阿波野や黒瀬の歌とほとんど同じだが、永井のこの歌の場合、上の句が具体的とは言え、それは個別具体的というよりは一般的な所作であるから、その点からすると、「こころやさしいけもの」の感じがどうも掴めない感があるのだ。
 (「の」の話に直接関係のあることではないが、「とおもふ」という述べ方も、短歌にはよく出てくる。このことはいずれ書くつもりでいる。)

 さて、古い歌を探そうとするが、手持ちのものからはなかなか見つからない。もちろん、上の句と下の句を「の」で連結するやり方の歌はいくらもある。その中だと、主格を表す「の」――今で言うところの「が」――については、いま扱っている「の」に近い印象を受けた。

・海に来て道に迷えるうれしさの郷愁に似れどふるさと知らず
     馬場あき子『地下にともる灯』

 はじめて来た場所なのにどことなく懐かしい感じがする、という経験があるが、そうするとさて、懐かしさとは、郷愁とはなにか、と考えてしまう。
 この歌の場合、「道に迷えるうれしさ」の感じが、結句の「ふるさと知らず」にばっさりやられてしまうところに歌の魅力がある。つまり上の句と下の句に若干の差があって、それが「の」によって接続されているところに、なんとなく短歌的な「の」の臭いを感じたのかもしれない。
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