凡フライ日記

山下翔と短歌

第2回 短歌的な「の」2

 さて、前回挙げた二首は、「の」の使われ方としてはかなり近いものを並べた(読点を伴っている点でも共通している)。そこでは「足止め」という言葉を使った。一方、他にも上の句と下の句を、この短歌的な「の」で接続するやり方の歌はたくさんあって、細かいニュアンスの違いがある。

・わたしにもまだ夕方があることの頬しろき犬の過(よ)ぎる縁側
     小林朗人「わたしのいなくなった部屋」
・だんだんと冗長になるセックスの明日何時に起きるんだっけ
     望月裕二郎『あそこ』

 一首目、夕方があることの(証として、たとえば)頬しろき犬の過ぎる縁側があり、二首目、冗長になるセックスの(証として、たとえば)<「明日何時に起きるんだっけ」なんて考えている状況>がある。
 ここでは「の」の後に省略されている言葉を(証として、たとえば)に揃えてみたが、要は、1つの状況が「の」を挟んでくり返されている。

・ちがう目の高さにすむということのわたしがさきに見つけている猫
     吉岡太朗『ひだりききの機械』

 同じように、「ちがう目の高さにすむということ」の実際の状況として、「わたしがさきに見つけている猫」が例示されている。けれどもこの歌では下の句が、上の句のかなり直接的な例示になっているのに対して、小林の歌はややぼんやりしているし、望月の歌はやや距離がある。
 そういう差があるにはある。それは1首を鑑賞する場合においては大事な差であることには違いないが、1首全体の構造を見た場合には、そこに類似を見ても差し障りないように思う。

 ところで、こうして見てみると、すごく論理的な印象を受けるかもしれない。もちろん歌のことである。が、歌を読んだときにはそうは思わない。最後まで読んでしまって、(おそらく作者がそうであったように)、下の句から上の句へ再び戻る。
 上の句と下の句で同じ状況を述べているけれど、そこには高低の差があって、上の句から下の句へ流れたあとは再び上の句へ引き上げられる。あたかも、めぐりめぐった電流が、最後にはまた電池に引き上げられるかのように。
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