凡フライ日記

山下翔と短歌

第1回 短歌的な「の」

 これから書いていこうとする「表現」というのは、何も目新しいものではなく、ごく一般的に使われている修辞の類を、少し自分なりに整理してみよう、というくらいの動機から書くものである。
 それで、短歌的な「の」というのは、例えば次の歌に現れるような「の」のことを言いたい。

・ストローを刺してあふれるヤクルトの、そうだよな怒りはいつも遅れて
     阿波野巧也「シティトライアル」
・ゴミ袋を提げつつ仰ぐ夜桜の、「家」を得て知るさみしさもある
     黒瀬珂瀾「吾子よ気付くな」

 一首目、頭から読んでいくと、「の、」で一旦足止めをくらう。それはおそらく作者にとってもそうで、そこから、<「怒り」という感情は「いつも遅れて」やってくるよな>という感想が出てくる。この場合は「そうだよな」、と言ってくれているけれど、二首目ではそれすらも隠されている(そのことによる気分の差がもちろんある)。
 普段使いの「の」は、主に連体修飾語として、つまり後ろに体言が続く形で用いられる。もちろん他にも意味・用法はあるが、普段使いでないという意味で、短歌的な「の」、と言っている。で、「ヤクルトの」「夜桜の」と言われたら、すぐさまその後に体言が続くことを期待し、そういう勢いで読むのに足止めをくらってしまう、この緩急、逡巡。
 例えば枕詞や序詞の終わりの「の」のように、「のように」くらいの気分でとることもできなくはないが、野暮な感じがする。一首の構造にしたがって、読者も一度立ち止まってみる、そうして少し「遅れて」やってくる感慨を味わうのが良いように思うのだ。
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