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1首鑑賞19/365

秋は帰路雲の茜を身に浴びてつれだち歩む去りし友らと
   岩田正『柿生坂』

     *

初出は「文藝春秋」だったと思うが、セブンイレブンではじめて目にしたとき、カーンと音が体のなかを突き抜けていくと同時に、なにか折り畳まれたものがぱたぱたと展開していくように景色がひろがっていって感激したことを思い出す。

春はあけぼの、秋は夕暮れ式の初句である。初句切れであるところも、まさに、あの随筆の展開の仕方をおもわせる。まず大きく全体を言っておいて、その仔細を順につまびらかにしていくやり方だ。「明治元年、京都は太秦に生まれた某であるが……」式の「は」だと読めなくもない。つまり、季は秋、いま帰路を歩いている、という情景描写ともとれる。しかしわたしは断然前者をとりたい。もし後者であれば、「秋は帰路、雲の茜を……」というふうに読点がいるんじゃないかなあ。でもそれを言ったら、前者の読みには「秋は帰路 雲の茜を……」というふうに一字空けがいると言われるかもしれない。うーん。実際には読点も一字空けもないので、その両方をつつみこむように読むのがいいのかもしれない。ともかく、初句切れで「秋は帰路」と言い放たれる。これだけで、なにかぐらっとくる。

つづく「雲の茜」、それを「身に浴びて」と端的にしてストレートな詩句がおおらかに景色をひろげていく。決して「茜にいろづいた雲」ではないのだし、「夕陽に身をつつまれている」のでもない。あるのは「(雲の→)茜」であって、その「(茜を→)身に浴びる」のだ。認識と、それを伝える表現の縮約がダブルで迫ってくる。その縮約をほどくように、下の句をつかってゆったりと述べられるのが「つれだち歩む去りし友らと」である。先立った友を身に添わせながら、いかにもやわらかな歩である。「友」のことをじかに「友」とうたうのも、岩田の特徴だろう。倒置された「去りし友らと」のあとには、えんえんと友の顔が浮かんでくるかのようである。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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