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1首鑑賞11/365

ディベートではなくディスカッションがしたいのだ私は 水仙の葉の勢いに
   永田紅「ディスカッション」角川『短歌』2018.1月号

     *

ディベート、というのはひとつのゲームであって、自分の立場に寄らず賛成と反対に分かれ、それぞれの主張をたたかわせるものである。意見を作ったり、それを根拠・論拠とともに提示して主張と成したりの訓練になる。また、無理やりに考えることで、ふだんとは違った角度からの考察や推論が得られることもあるだろう。また年齢差や立場のちがいから率直な意見が出しづらい場合など、ひとつフレームがあることによって、場が滑らかになる。しかし、言ってしまえばゲームはゲーム、訓練は訓練。ディスカッションとは似て非なるものである。実際の現場においては、ディベートとか言ってないでふつうにディスカッションやろうぜ、となるのも当然だろうなあ、と思う。

と、わかったふうに書いているわたしはと言えば、ディスカッションよりもディベートの方が気楽でいいなあ、とおもう(面倒だけど)。当事者意識はいらないし、責任も発生しないし、もとより自分の立場とは無関係であるから傷つくこともないし、物事は前に進める必要がないし、なにより所詮はゲームである、結論はなくていい、という気安さがある。そもそも、何事に対しても意見というものを持っていない。本当は持っているのかもしれないが、そうだとしても、それが意見という形ではわたしの中になかなか現れてこない(それを良いことだとはおもっていないが)。翻って、このうたの「ディベートではなくディスカッションがしたい」という憤りはいよいよ、よくわかってくる。

水仙の葉というものを久しく見ていない。先が尖っていてシュッとした葉っぱであったようにおもう。あの勢いのように、ああいう勢いで、議論がしたいと言う。それぞれが自分の意見を持って、自分の立場で話す。そしてそれを押すことも、引くことも、自らの責任で行い、その結果も自らが引き受ける。結論を出すことが大前提。そういう対等で建設的なやり取りを期待するものなのだろう。研究室の一場面をおもいながら読んだ。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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