2019/01/05
1首鑑賞5/365
かたち良き富士をふたりで見ていたり松の林を鳶が越えゆく松村正直「富士の見えるあたり」『短歌研究』2018.8月号
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母とふたりの旅行の一場面である。
ということが、連作のほかのうたを読みながらわかる。連作のなかで読むことで、うたの抱え込む気分や時間空間の細部がわかってくる。
わたしにとって富士山は、最近ようやくわかった山である。新幹線の窓から、あるいは機上から富士山を見たこと自体は何度かある。けれども、富士山のきれいな、完全な状態、全景をずっと見ることができずにいた。全貌おぼろげで、実在のものとは思われず、何かを掴みそこねたようにおもっていたのだった。昨秋ついに、完璧な富士山を見た。裾がきびしく反っていて、それが富士山の高さ、裾野の広さを伝えてくる。「かたち良き富士」という描写は、ひとつにはまさに「かたち良き」と形容するより他ない富士山のフォルムを表していよう。同時に、(松林、ではなく松の林とするところもそうで)ある幼さがあって、それは年齢を重ねて立場が入れ替わるような母と息子の関係性を浮き彫りにする(とまで言えば、それは連作全体の雰囲気にのまれてしまっている評になるのだが)。
しずかな光景であり、時の流れはゆるやかだ。ときおり鳶の声がしているか。三句切れのシンプルな形に、余裕をもってことばがおさめられている。それは決して伸びきっているわけではなく、あくまでそのときの状況をそのまま切り取ってきた、というふうなのだ。
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