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連作覚書2018(その3)

あともう少しで、ひととおり読み終えられそうですが、その3です。(その2は、こちらから読むことができます。)

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11月29日(木)

「短歌往来」9月号から。「青みなづき」33首(日高堯子)一連は、吉野→西行→友→母・父というふうに大きく4つのブロックに分けられる。ゆるやかな話題の展開というよりも、ひとつのものをじっくり見つめて、次へ移るという構成だ。〈山棲みのここで死ねるの? 野葡萄のすつぱいジュース美しかれど〉は「山棲みをはじめた友」をうたって率直な問いをぶつける。おいしい、ではなく、美しい、というところに問いのニュアンスがこもる。そして母のうたへ。〈床に落ちた母を起こせず起こせぬまま並んで聞きぬ夕ほととぎす〉さらに父のうたへ。〈六枚の薄翅(うすはね)つけたわが父が夜明けさびしい抱擁くれぬ〉。

「しゅうさくのためのしゅうさく」33首(斉藤斎藤)は、やはり視線を共有しているような感覚がある。わたしの中に視点人物(?)が入ってきてわたしと入れ替わり(あるいは重なり合い)、視線の主導権(?)を奪われるというか、一緒に視ることを余儀なくさせられるというか。表面的なことをメモしておくと、全首ひらがな書き、結句ちかくまではそのまま読み通せても結句で少し向きがかわる。〈かわにしたらふねがながれてふねにしたらそらがながれてゆくのだろうね〉は相対のことを言っていて、好きなうた。

「煉瓦の家」12首(渡辺幸一)は特集「現代の衣食住を詠む」に寄せられた連作で、イギリスでの暮らしのことが書かれている。お題通り、衣・食・住のうたが鏤められている。エッセイから先に読んだのが良かったのかもしれない。「合歓の花こんなに咲いて」8首(秋山律子)も印象的だった。〈書きかけの手帳に明日の時間あり合歓の花にじむように明日あり〉。

「歌壇」12月号も、気になる連作が多かった。「今年」7首(伊舎堂仁)は、ひとつの話題で構成されているのだが、それがちょうど容量におさまっている感じがある。おちょくられているというか、あおられているというか、緊張しつつ読んだ。「自販機」12首(中根誠)は、前6首が自販機のうた、あいだにひとつ転換のうたがあって、後5首が秋のうた・妻のうた、という構成。自販機へのこだわりをおもしろく読みながら、〈傾ける昭和の店に自販機がポストに替はり置かるるはよし〉〈部屋の灯りつけて鞄に温む茶を探り出すときひとりの秋ぞ〉というふうに転換していくところに感じ入った。

「12首もある」12首(永井祐)は、はじめ3首でぐっと連作世界に引き込まれて、一息に読まされた。中盤のうたでは〈セロテープカッター付きのやつを買う 生きてることで盛り上がりたい〉や〈たばこ吸おうと思って寄り道したけれど渋谷の底に着くと落ちつく〉にひかれた。けれども、これらのうたに対して、どこがどういいかを言おうとすると、すぐにはことばが出てこない。「昼の闇」20首(秋葉四郎)は、硬質の韻律が音読してここちよい。〈地下街の酒店雪郷(ゆきぐに)倒産か昼の闇(やみ)濃きところを通る〉が表題歌。昼の闇とは地下の暗さなのだが、そこに「酒店」と「雪郷」とがことばの上でも差し込まれることによって、ある対比を感じることができる。四句から五句にかけての「濃き/ところ」というところもうれしい。手触りや立ち姿や空気に統一感のある一連20首で、これが50首くらい長くなってくると、逆効果かもしれないが、20首という長さにおいては、静かに展開し、ゆっくり味わうことができた。

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12月08日(土)

「短歌往来」8月号、「ひかり」13首(中山洋祐)がすごかった。〈駅の端から雨は吹き込む〉のような措辞のこまやかさ、語の斡旋の独特にもひかれつつ、それが視線・眼差しとからみあいながら一連の作品世界をつくっているところに注目した。〈しんだひとこれからふかくしぬように寺院の入り口ぼんやり開いて〉。挽歌の一連であるけれど、そしてそれは特定の誰かに向けられているのだけれど、それ以上のものへの視線・眼差しがあって、もうひとつ踏み込んだところで突きつけられて、迫力があった。「泣かねばならぬ」13首(富田睦子)も、迫力の一連。どこか薄ら寒く、不気味で、暗い感じがただよう。きっぱりとした断定もこわい。

角川「短歌」11月号は、「三徳ビルの箱」12首(花山周子)「コーポみさき」50首(山階基)という、(もちろん偶然だが)住まうところの建物の名前をタイトルにもつ2作品に思うところがあった。花山作品は1首目に〈部屋を形作る木の直線に安定する 秋 簡潔な三徳ビルの箱〉とあって、まず簡潔に、タイトルの種明かしがされる。季節のうつりかわりのなかに、母と子の交わりが描かれる。その舞台であるところの「三徳ビルの箱」だ。「簡潔な」「箱」という言い方が、そこになにか、簡潔ならざるものが展開されるような予感をもたらす。実際、連作の後半、ぐいぐいたかまっていく。山階作品のほうは、16首目に〈金属の文字がはずれたあとにあるコーポみさきのかたちの日焼け〉とあって、これも建物の造り・外見・質感(そしてそこにこもる歳月、それは花山作品のほうにも言える)のことがうたわれている。人がだれかと暮らす、生活をともにするということ、そこにはひとりの人間同士がいるということ、そのための場所があること。単純でないこととおもう。暮らしの細部と、それを感じ取る五感と、それを感じ取らせる感情とが、ひとつ連作のなかに詰まっている、そんな2作品である。

「現代短歌」12月号、連載作品「胡麻を剝ぐ」24首(内山晶太)、なんども息を詰まらせながら読んだ。〈エスカレーター息継ぎのなき息のなかをゆくごとしただ凭れていたり〉〈せんべいに食い込む胡麻を剝ぎてゆく秋の指、まもなく冬の指〉など。はー。おなじく連載作品から、「さわぐ胸、くさむらの夢」24首(加藤英彦)も気になった。1首目〈ながく忘れていし海のおと岩はだを叩いて記憶の淵よりかえる〉でもう、作品世界に引きずり込まれる。回想の暗示であり、「岩はだを叩いて」のディテールが縁語として「淵」を引き寄せる。15首目〈岩陰からも突堤からもあらわれて舟虫は西陽を浴びてうごかぬ〉の「うごかぬ」の強さに息が詰まる。上の句で韻律とともに展開されるうごめくイメージが、結句で「うごかぬ」となる。時が止まってしまったかのような不気味さと、西陽の存在感とが、ただ残るばかりだ。連作を通して、現実と象徴とをおりまぜながら、作品世界が濃厚なものになっている。

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12月09日(日)

「短歌研究」11月号から4つ。「体内飛行8 予言」30首(石川美南)は、連載8回目。妊娠・出産をめぐる一連だ。身体の変化が、ことばや体感の変化をもたらす、ということがたとえば体重や筋肉の増減だけでもおこるとおもっているのだけれど、妊娠・出産においても、同じようなことがおこっているのかもしれない。「歌壇」の文章とも合わせて読んだ。

「平成じぶん歌」、「三つの昔のクロニクル」30首(島田修三)はとにかく楽しい。1首目の詞書に「平成元年 母いよいよファンキー」とあって、終始この調子で連作がすすむ。固有名詞盛りだくさん、毒というか批評というか旺盛で、読んでいてこちらまで勢いづいてくる。時事とはやや離れたところで〈大阪より帰りしせがれの部屋に流れ 美人、アリラン、ガムラン、ラザニア〉〈割れたLPの「A LONG VACATION」懐かしく大瀧詠一夢のやうに逝く〉〈嬉しきこと待つ表情に俺をおきて独り逝きにき嬉しきことあれよ〉などにもひかれる。「三十年間」30首(花山周子)は、全体に1首1首が短歌という感じではなく、この題への対しかたのひとつを見るおもいに読んだ。おなじく「曇天」30首(花山多佳子)も、短歌なのか、とおもう部分がいくらかあって、この絶妙のシンクロは、とおもいつつ読んだ。内容の面でもかさなり合うところがあって、それはひとつ場面が立体的になるようなところがあってもちろんおもしろいのだが、それよりもなによりも、この対しかた、のところに注目させられる。

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(おわり)
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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