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連作覚書2018(その2)

ずいぶん長くなってきたので、2つに分けます。(その1はこちらからお読みください。)

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11月16日(金)

うたがいくつか並んだものと、連作と、なにがちがうのか。あるいは同じなのか。たとえば総合誌に掲載の作品は、〈作品○首〉という書かれ方で目次に載っていることがあり、それは連作なのか、そうでないのか。「印象に残った連作」という視点で総合誌をめくるとき、「連作」ということがどこかで枷になっていて、大事なうたや、うたの集まりを、見逃しているのではないか、と不安になりつつある。

「現代短歌」2月号、「冬の花束」13首(岩尾淳子)は一連にたとえばストーリーのような流れ、あるいは時間の流れや場面の連続的なうつりかわり、といったものがにわかには感じられない。〈色褪せたプラスチックの馬の背にまだあたらしい水の粒つぶ〉、公園の馬の乗り物だろうか、連作の2首目を引いた。1首目に「雨あがり」とあって、それをふまえて読む。1首目がなければ、室内のうたを想定したかもしれない。こういうふうに、確かに、立ち止まって1首1首を読もうとすれば、前後のうたとの連関というのが全くないわけではない、ということはすぐにはっきりわかるけれども、一読したときの印象はそうではなかった。眼差しでも、体感でもない。だからといって、抽象や観念かと言われると、そうでもない。1首の立ち姿や、連作(と、ここでは呼ぶけれども)の現れ方が、昨日読んだ3つの連作とは全く違うなあ、と思わされる。

好きなうたは、〈ふゆ原はこころが遠いその背中に触れたいようなゴルフ練習場〉〈見下ろせば海かもしれずベランダに何も持たない月が来ていた〉など。景だけがあるわけではないのに、それを視ているはずの誰かの姿、存在感が薄い。しかし、景だけではないゆえに、たとえば「その背中に」や「見下ろせば海かもしれず」などが差し挟まれることによって、無自覚のうちには視線を共有することができず(わたしにとっては)、あるいは体感を共有することも難しい。けれども、いいなあ、となる。1首1首について、長く考えたり、味わったりできる作品、ということだろうか。

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11月17日(土)

短い連作、ということで心に留めているのは、たとえば小池光の「砂糖パン」(『思川の岸辺』所収)や「存在」(『静物』所収)である。小さな話題でごく簡潔なまとまりなのだが、一連に完結した感じがあって、一方でじわじわ広がっていくような在り方をしている。

「短歌研究」5月号には、7首の連作が100篇も掲載されている。小品と言えど、これだけの数が揃えば丹念に読むのは正直しんどい。通して読んではみるもののどこか拾い読みの感が否めない。「宿題」7首(穂村弘)は、『水中翼船炎上中』にも見られるような、子どもの頃のうたが詰まっている。〈友だちの家で宿題していたら犬が庭から嘗めに来た夏〉〈しもやけでグーが握れぬ登校の朝にしゅーしゅー噴いている湯気〉。一連7首のなかに、夏のうたと冬のうたがあって違和感がない。「顔に出る」7首(大松達知)は、話題はいくつかあるのだけれど、それらがおのずとまとまってある。たとえば〈未来とはとにかく明日 ぎんいろの鍋に緊まれる日本のカレー〉というような、思想信条を出すような一首があることによって、それに引き寄せられるようにほかのうたの具体が活きているのかもしれない。短い連作にまとまりを出すひとつの方法のようにおもう。

「鳥の家」7首(奥田亡羊)は、もう少し長い連作でこの話題を読みたいと思った。「自立援助ホーム」の光景がぽつぽつと書かれていて印象深い。〈家のない少女三人が平らげる三合の米 ざくざくと研ぐ〉など。「春雨の中」7首(小池光)はやや約まった韻律が特徴の一連だ。それよりもなによりも、〈時間の物質化として墓は濡るる「小池家代々墓」はるさめの中〉という一首ではひらがな書きの「はるさめ」が、題では「春雨」となっていて、この抑制が小池光だなあ、と妙に納得する。「城跡にて」7首(三枝浩樹)は、題のとおりのささやかなスケッチなのだが、三枝浩樹のこのソフトなタッチは、延々とつづくよりも、こういう小品で活きるのかもしれない、と少しおもった。〈人老いて町老いて時がゆきすぎぬ城跡に会う春のあおぞら〉、一連は具体から抽象へゆるやかに移っていくのだが、その中程にある一首。配列あってのことだろうが、「あおぞら」が抽象のものとして迫ってくる。

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11月20日(火)

「短歌往来」6月号、「ライオンと子羊」13首(清水正人)は、なにか読んだことのないうただった。〈切り分けし夜の小口のくれなゐを春とこそ呼べあけぼのと呼べ〉における夜を小口切りにするという奇想を、当然のごとく「切り分けし夜の小口の……」ともってくる。〈さざなみがくるぶし撫でて水になる 別れ話はまだ続いてる〉も、「さざなみ」が「水」になる(成る)という把握が自然にうたわれる。一連の雰囲気も印象にのこった。

「歌壇」6月号、「姪の浜行き」12首(大井学)も、一連の雰囲気が印象深い。〈雉鳩がてこてこてこてこあゆむなり実も虫もなき春痩せながら〉、「てこてこてこてこあゆむなり」にわらうのだけれど、下の句で、もうひとつ踏み込んでいくところに姿勢をもどされる。〈鈴蘭をちゃんと見たくてしゃがみたり唐突にしゃがむおじさんわれは〉では、下の句に虚を衝かれる。〈ゆうぐれの空の低きをよぎるもの初燕なりおかえりなさい〉。「てこてこてこてこ」「唐突にしゃがむおじさんわれは」「おかえりなさい」あたりに、ひとつ一連12首を取り結ぶ情感があるようにおもう。具体的な動物、植物、人間がえがかれて、その距離感に独特がある。

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11月21日(水)

「歌壇」7月号、「どんたく見に行く」5首(野田光介)は「年齢をどう詠むか」という特集に寄せられた一連。〈グラウンド・ゴルフで転ぶ、五首つくる、どんたく見に行く、八十三歳〉という一首ではじまる「八十三歳」の5首だ。齢というものを、5つの角度から見せられるような読後感がある。軽妙というよりも、アイロニーの眼差しがある。おなじく「歌壇」7月号、「思案橋ブルース」12首(染野太朗)は、以前挙げた「甑島」と同じように、ある種の旅の一連である。どこか「旅行詠」とは呼べない感じがあって、緊張する。土地ということと、そこに暮らしがあるということ、あるいは風土、慣習、またそこに人が集まり、からみあい、育ち、また入り交じり、の、その只中にいるような12首だ。

「短歌往来」7月号、「青い葉」6首(花山周子)にも、ある緊張をおぼえた。〈ドラえもんになりたいというわが娘その発想はわれになかりし〉には動揺というよりも、平然におどろく。〈どういう加減で子は美しくなるだろう睫毛から流れ出す胞子の光〉の、上の句は、花山作品におりおり見られる眼差しだが(そのつどおどろく)、そこから結句で「胞子の光」までもっていく力の(一首の)はたらきに、圧倒される。

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11月22日(木)

「短歌研究」9月号、「平成じぶん歌」から「〈気付きの〉奥村短歌は成りぬ」30首(奥村晃作)「チョークの匂ひ」30首(松本典子)に注目した。奥村作品は、題(この明け透けな感じにもおどろく)が示すとおりの〈奥村短歌〉の一連で、ますますヒートアップしてきた、というか、題詠で活きてくる歌風なのだなあ、と思わされた。松本作品は、韻律ゆたかな一連である。だいたいがこの「平成じぶん歌」というのは〈事〉を詠わんがために、ふだんは見られないような字余り・字足らず・破調などなど、多く見られてきたのだが、単にそれだけではない、作風との交わりを感じた。〈おもへば二十歳のわれの背伸びよ並木座に「東京物語」わかつた顔で〉〈くせの強いあなたの文字をさがす駅の伝言板 白いチョークの匂ひ〉〈「これに歌を吹き込んであるの?」と岩田正に言はしめて薄しフロッピーディスク〉〈アイボとふ犬型ロボット棲まはせむひとりゐの母とわれのすきまに〉などが、特にこころに残った。

角川「短歌」5月号、「点滴の夜」7首(高島裕)は、飼い猫の「饕餮(たうてつ)」を看病する一連。しずかな夜の時間と関係性と記憶とがえがかれる。〈晩秋の淡きひかりを享けながらなほ腹見せてよろこぶ日あり〉。先に引用した〈アイボとふ犬型ロボット棲まはせむひとりゐの母とわれのすきまに〉(松本典子)もそうだが、人と人との間に、あるいはひとりの人生の傍らに、人ならざるものが介在し、また寄り添う、という場面(たとえば佐佐木幸綱の「テオ」をめぐる作品群)は、これからもっとひらけてくるのではないか、と、なんとなくだが、おもう。

「歌壇」8月号からは、「舞う夏蝶」7首(前川明人)がどうにも気になった。うたのアイテムの持ち出し方だろうか、この一首、というのを選ぼうとして読み返すのだが、どの一首も、「この一首」という形ではひろいあげることができず、しかし、もう一度、もう一度、と気になって読んでしまう。いつか手が届きたい。

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11月23日(金)

総合誌も12月号が少しずつ届いてきた。あと3ヶ月分くらいでひととおり読みかすことができそうなので、そのあとで、もう少し数を絞りたいとおもっている(ずいぶん増えてきたので)。具体的には、

(1)10首未満の連作
(2)10首以上20首未満の連作
(3)20首以上の連作

から、それぞれ(たとえば)「今年の5篇」を選ぶ、とか。(来年は毎月ちょっとずつ記録しておこう……。)

「現代短歌」10月号は、作品連載から「こどものぬりえ」24首(山本夏子)「熱砂」24首(大森静佳)を挙げる。この「熱砂」24首は、今年の大森作品のなかで、ひとつ飛び抜けて、わたしには受け取られた。連作のはじめからぐんぐん来るのだが、それほど大振りでもなく、しかし確実に跳ね返ってくるような感触で、遠心力をうまく制御するような力を感じた。どのうたも、ひとつずつ引いて書きたいくらいなのだけれど、そういう一連にあって、連作の特徴を端的に示すうたとは別に、〈目薬をさしてふたたびあなたを見る夜の浜木綿ひかっているか〉〈手を伸ばしてもいいですか闇のなかカルスト地形に火星ちかづく〉といううたに惹かれた。

角川「短歌」10月号、「それぞれの夏」28首(香川ヒサ)は、夏をめぐるさまざまなことがうたわれて、多彩で、複雑な思いがにじむ一連だ。そのバラエティと、それらを取り結ぶひとつの眼差しが印象的だった。冒頭2首目、〈夏の雲立ち立つ午後を窓の辺に三角巾で腕を吊る母〉とあって、入道雲と三角巾の形状、質感、色彩が並べられる。母の佇まいが絶妙の存在感を出している。

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11月27日(火)

「それぞれの夏」から、もう少し歌を引く。〈あぢさゐが白く乾きてゐたりけり終戦の日に正午の時報〉〈喜んで伺ひますと返信す感情は約束できないものを〉〈渋谷川に卵のからがながれ居て茂吉も少し一緒に流れた〉〈このやうな背中を持つて窓の外眺めるんだよ夏の終はりは〉。「それぞれの夏」という題で、話題はゆるやかに展開しながら、「それぞれ」さまざまなことがうたわれている。そしてそれが多くの場合、「正午の時報」「感情は約束できないものを」「茂吉も少し一緒に流れた」というふうに、最後の最後まで粘り強く、ひとつ踏み込んだ形で提示される。また、「眺めるんだよ」「一緒に流れた」という口調もあれば、「ゐたりけり」という結び方、「できないものを」という止め方があり、「ながれ居て」のひらがな「ながれ」漢字「居て」の書き分けあり、と、目で読んでも、口に出しても、さまざまバリエーションがあって、ストーリーではないところで、一連を読まされる。

「短歌研究」10月号、「平成じぶん歌」は第五回。「光る夕立」30首(吉川宏志)は、とくに初期作品に感じられた暗くて重い感情表現が、濃厚な一連だった。〈絨毯の或る模様まで歩みゆき手を取れという 白き手に触る〉には「平成五年 結婚」と詞書がついているのだが、「或る」「取れという」という、他人事のような眼差しが不穏だ。「白き手」という象徴的な書き方ともあいまって、おだやかでない印象を受けた。〈運動の苦手な我は教えられず ラケットひるがえす子を見守りぬ〉における「運動の苦手な我」という直截や、〈祖父の顔を死ののちも舐めていた犬が後ずさりして低く唸りぬ〉というじりじりとした描写に、血の気の引くような迫力がある。批評の眼差しが他者に向くのと同様に、自己にも、同じくらいの筆圧で向いている、ということかもしれない。

おなじく「短歌研究」10月号、「#メンヘラ・フォーエバー」30首(野口あや子)は、「メンヘラ」というひとつの筋に貫かれた一連。なにかひとつのものと付き合いつづけ、それがある時間的・身体的な量になってくることで、あらわれてくるもの、踏み入ってしまうところ、の力というか、はたらきというか、そういうことをおもう。

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その3へつづく)
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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