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連作覚書2018

印象に残った連作を、連作という単位で記録しておきたいという気持ちになって、少しずつ振り返っている。いくらかたまるまで、ここをメモとして使う。(随時更新します。)

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11月3日(土)

角川「短歌」2月号は、まず「滅多にみないテレビから」28首(渡辺松男)が衝撃だった。マラソンと駅伝をテレビで見て、それをうたった連作である。〈視る〉というときの、眼力といったらいいのか。「別れ」20首(馬場あき子)は岩田正を悼む一連で、生々しい現場感と、歳月の帯のようなものが翻る連作だった。

「短歌研究」1月号は、「平成大東京競詠短歌」という特集。「中央区」の担当は小池光。題があるページもいくらかあるが、ないものもままあって、さしあたりこの「中央区」というのを題としておく。あらためて「中央区」15首(小池光)を読むと、小池光のうたの一面として固有名詞があるのだなあ、と思わされる。土地のことや、事の仔細はわからないのに、臨場感を引き連れてくる。この特集は「競詠」ということであって、読み比べの楽しさがあった。連作の展開の仕方もさまざまある。

「歌壇」3月号。「グリーンフィールド」20首(花山多佳子)は友の自殺をうたった一連で、現実と回想の往来のスムーズなところに唸った。2首目、3首目の順序が、自然に4首目以降の回想につながる。それが13首目あたりでほぼ現在へかえってきつつ、14首目ではっきりと今があらわれる。つづく15首目もどこか暗示的で、最終的には今のうたに還ってゆくのだが、なにか読者として、連作を通過したような読後感をもった。

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11月4日(日)

「現代短歌」1月号、「はちみつクレヨン」24首(山本夏子)は、どの1首も、1首完結の魅力がありながら、それが束になって迫ってくる。この、1首完結は山本作品のひとつの特徴で、それが連作のなかで相殺することなく束状になって、一連としての力を持っている。

「短歌研究」2月号は、「豆電球」10首(小島なお)がよかった。10首の連作といえば短い部類に入るとおもうが、小品には小品のあじわいというものがある。ここでは、「雪」というものを核に、恋というものがうたわれる。ほっ、と灯る一場面である。具体的なモノと、そこにただよう(あるいは、感じ取ってしまう、見てしまう)気配の一連だ。これは延々と長い連作で展開すると退屈になってしまうので、やはりこの歌数ならでは、ということになるだろう。

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11月5日(月)

挽歌ということをおもう1年だった。「短歌往来」2月号、「イサファガス」33首(大松達知)は父を、「短歌研究」7月号、「ほくろ」30首(小池光)は母をうたってそれぞれ印象的だった。大松作品は、回想をまじえながら死の前後を一定のテンポで描写していて緊張感がある。一方、小池作品にはどこかやすらかなるところがあって、哀切とユーモアのあわいをいくような読後感があった。

角川「短歌」3月号、「こわれた」28首(大島史洋)は、題のとおり「こわれた」に貫かれた一連である。「枕辺のこわれたラジオ」に始まり、(精神的に)「こわれてしまえ」と叫び、「日本語がこわれる」「人間がこわれて」「私はこわれはじめた」「こわれてしまった万年筆」「こわれてしまうひとりの時間」とうたい継がれていく。話題はさまざまだが、それらを「こわれた」が取り結ぶことによって、散り散りにならずに迫ってくる。

角川「短歌」4月号、「Place to be」28首(川野里子)も忘れがたい。この一連を読んで衝撃を受けて、『硝子の島』を買って読んだ。母の介護ということと、しかし自分が生きるということの、狭間を揺れ続ける一冊であり、その延長に今回の一連がある。折々詞書として差し挟まれる台詞の妙。主題に絡めとられるようにして周囲の事物がうたわれている。

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11月6日(火)

「現代短歌」3月号、「秋のこと、冬のこと」24首(内山晶太)は連作として、というよりも一首一首の立ち現れ方に驚きながら読んだ。着眼の独特なところもさることながら、一首を韻律から際立たせたり、あるいは一首を、ひとつのことばの選択によって印象深くしたり、一首一首の立ち上げ方に特徴がある。(初読のときは、圧倒されて、直視できなかった。)

「短歌研究」4月号、特集は「不思議な歌の国・名古屋」。名古屋在住・ゆかりの十三名が連作を寄せていておもしろい。彦坂美喜子、島田修三、小島ゆかりなど、気になる作品はいくつもありつつ、いちばんは「光が丘に星降る午後を」15首(黒瀬珂瀾)とおもう。固有名詞のオンパレードでにぎやかなのもあるが、そのひとつひとつに気分がノっていて、「若かつたんや」「あたりかおぼろ」「さういふとこがアレやぞ」「これが魔界だ」と口調もさまざまで、お得感(?)のある連作だった。次々読んだ。

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11月7日(水)

角川「短歌」8月号、「碍子」28首(小池光)は1首目から意表をついてくる連作で、小池作品のさまざまな面を見ることのできる一連であった。結句で一首をひっくりかえす方法あり、固有名詞を効かせる方法あり、またリフレインの妙あり、と飽きずに最後まで読み通すことができる。そして最後の1首が「碍子」のうたなのだが、結句がぴた、っと極まっていて圧倒された。連作とタイトル、ということを考える。

ことし「短歌研究」は「平成じぶん歌」という特集を立て続けに組んでいて、これがどの号を読んでもたのしく、ここに挙げるとキリがない。「名古屋」の特集にしても、「東京」の特集にしても、作品がずらっと並んで、それがたのしい、というのは「短歌研究」の(今年の)特徴ではないだろうか。さて、「短歌研究」8月号は、作品連載から「富士の見えるあたり」30首(松村正直)をここに記しておく。連作のうしろから二首目にあるように、まさに「母と次男が旅する話」である。〈かたち良き富士をふたりで見ていたり松の林を鳶が越えゆく〉〈娘なら一緒に入る温泉をわかれてひとりひとりの時間〉など。ひとつの連作において、徹底してひとつのテーマに取り組む、ということの多い作者とおもう。それゆえの、ねばりづよく描写をかさねてゆく構成が、本作でも活きている。

「現代短歌」8月号、「解答はじめ。」7首(屋良健一郎)には、うっ、と立ち止まってしまった。二者択一の、テスト形式の7首であるのだが、どの問題をとっても、立場によってはいずれもが正解になり得る、そのことを突きつけられた。だからこの一連は、連作形式の新しさ(もっといえば、テーマとの合致)のみならず、ここに描かれていることの複雑さが印象にのこっている。

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11月8日(木)

「現代短歌」の二人五十首は、どの二人が、どんな五十首を用意するかで、同じ形式のようでいくらも違ったものになっている。もっとも鮮烈で、なおかつ、この形式が活きたのは、奥村晃作と工藤玲音の二人五十首ではなかったか。場の力と一体となって連作が迫力を帯びていたし、この形があったからこそ生まれたうたもあったのではないか、と思わせるような作品がいくつもあった。さて、「現代短歌」4月号、「クリームパンと担々麺」50首(鯨井可菜子、田村元)は、それとはまた違った種類の、二人五十首ならではの作品であったとおもう。奥村・工藤ペアのときの緊張感とはちがう、ラリーのおもしろさがある。各々が、それぞれにうたを作るのだけれど、どこかで重なりあったり、ときにはっきりと絡みあったりしながら、ひとつ生活が浮かんでくる。

「短歌研究」7月号、「平成じぶん歌」は、「まだ旅の途中」30首(田中槐)にひかれた。これも生活のうたと言えばそうで、しかし人ひとりの三十年というのは(それはどの「平成じぶん歌」を読んでも思うことだが)実にいろいろのことが起こるのだなあ、と平凡な感想だがそうおもう。どの三十年、が切り取られるかによっておのずと味わいも変わってくる。田中作品の場合、およそ三十歳から六十歳というところか。仕事があって育児があって、短歌結社に入って、俳句結社にも入って、引越しをして。固有名詞的一連である。そしてその時々の、ノリや気分が、まっすぐに出ていて、末尾の一首には、それら連作全体への眼差しがこもっている。

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11月9日(金)

「短歌研究」6月号、連載は、「三月生まれ」30首(池田はるみ)が印象に残った。池田さんの「ばあば」詠というのか、孫をうたって独特の目線と口調が池田作品にはある。この連載でも、折々、「ばあば」が登場してきた。

「歌壇」9月号、「ぜんぶがちがふ」20首(渡辺松男)は渡辺松男がうたいつづけているテーマのひとつ大きなものが、直にあらわれている作品だ。〈ぜんぶちがふやうな気がするからだのぼくとぼくのからだとからだとぼくと〉〈ねむりたい、夏掛けぶとんいちまいが鉛以上に重たいけれど〉など。「退部」12首(千葉聡)も、千葉作品の王道というか、まっすぐ千葉聡なのだが、そのまっすぐが、力強くおしてくる連作である。〈男子部員三人が俺を呼びとめて「部をやめます」とそれだけを言う〉、この「三人」というのがおだやかでないなあ。タイトルが「退部」であるから、少し予感しながら連作を読み進めるのだが、こういう形で退部がくると、想像以上でおどろいてしまう。これが5首目で、そこから一気に12首目まで進む。内面を抉り出すことと、そしてそれを(ときに美しすぎるほどの)情景へかえすこと。千葉作品のひとつの特徴であるが、それが充実した、一連12首である。

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11月10日(土)

石井僚一は、第1歌集以後もかわらず、さまざまなスタイルのうた・連作を発表している。その振れ幅におどろきもするのだが、その取り組みはどこかアイロニーを含んでいて考えさせられる。「現代短歌」5月号、「自死と不死の等しき部屋」13首(石井僚一)は文語旧かなということに意識的な作品だ。〈薄鼠に空は湿りて木曜の競馬場には馬の哀しさ〉〈薄墨の雨に濡れたる魂を絞りて起伏なき床拭けり〉と、これはたぶんわたしの好みのうたを引いたのだとおもうが、そうではない語彙や世界観もこの連作にはあらわれていて、そのほかの石井作品と直結する部分が少なくない。たとえば、井辻朱美、睦月都、大塚寅彦、という歌人を思い浮かべてみる。さらに川野芽生、小佐野彈、寺山修司、黒瀬珂瀾、高島裕を引き寄せてみて、少しちがうな、という気になってくる。不思議と不気味のいりまじる一連だ。

おなじく「現代短歌」5月号から、「最後の醤油」7首(佐伯裕子)は特集「最後の晩餐」に寄せられた一連である。とりたてて豪華な食事ではない、むしろ、平常の、ささやかな食事の風景と、そこに滲む思い出と、眼差しとが印象的な作品だ。7首ぜんぶのうたが好きだった。「紫蘇の実かけて」7首(米川千嘉子)もまったく同様のおもいに読んだ。この特集のことはすっかり忘れていたのだが、とにかくたのしくおもしろく、また、それぞれの生(なま)の側面が出ていて、読み応えがある。

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11月11日(日)

引き続き「現代短歌」5月号、「ふるさとに喰ふ」7首(黒瀬珂瀾)は、〈ふるさと〉というものを問う一連で、そこに「最後」ということと「晩餐」ということが絡み合いながら7首が成っている。エッセイには「大阪に生まれはしたが、実家のあった町は町ごと巨大マンションとなり今や跡形もない。」とある。この一連、土地の食べものが多くうたわれているのも大きな特徴だ。

「九大短歌」第八号、「毛とニキビと」35首(菊竹胡乃美)は、5首目に〈おめでとうございます男の子ですよと言われたけど女の子だったよ〉という一首があって、つまり、「男の子」のはずなのに「女の子」としてうまれた、という視点で一連が統べられている。しかしこの一首の迫力というか、温度というか、すごいなあとおもう。まさにこの「女の子だったよ」というくらいの距離感で、現に「女の子」であるということを知らしめられるのだろう。〈水族館より遊園地より一時間五十円で卓球やりませんか〉〈サヨナラホームラン打とうねってお父さんお母さんに言われて泣いた〉など。一首が剥き出しで、ストレートにとどく。

「Sit in the sun」という個人誌から、「Sit in the sun」15首(阿波野巧也)がこころに残った。滑らかにことばが運ばれてくるような心地よさがある。真っ昼間のど迫力、という感じではなくて、淡いところ、まばゆいところが浮かんでくる。〈憂鬱はセブンイレブンにやって来てホットスナック買って食べます〉〈シャンプーを薄めて使い切るまでをがんばりながら過ぎる一月〉など。「買って食べます」「がんばりながら」にあらわれている気分が、ほとんど「素」のように思われて、だからこれも、ある種のストレートのように映る。

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11月13日(火)

「COCOON」Issue 09は、「やまねこ」24首(大松達知)「そこが海ではないとしても」24首(工藤玲音)に注目した。「やまねこ」は、登場人物の多い一連である。「ぼく」の一首から始まるのだが、「ぼく」ひとつとっても「あすのぼく」「ひとりのぼく」「われ」などいろいろな現れ方をするし、末尾の一首では「ぼくにまだぼくが残っているようだ」とうたう。「ぼく」というものを見つめながら、そこには家族が混じってくるし、またその他にも固有名詞で人物がうたわれている。

工藤玲音について、その「作風」を問われると、わたしはまだ、これ、という形で即答することができずにいるのだが、この一連ではその、これ、が少し見えるような気がする。それでもまだ漠としたものだが。一連は、「きみ」と「わたし」の24首である。景色はなんとなく静かで、二人の輪郭も淡い。〈混ぜながらどの感情か見失う夏の大きなフルーツポンチ〉〈まっすぐに歩ける蟹のものまねできみがこちらへまっすぐに来る〉〈溺れているそこが海ではないとしても銀のあぶくの息継ぎをせよ〉など。もっと威勢というか迫力のあるうた、元気ではちゃめちゃなうたを記憶していたのだけれど、これらのうたは、それとはちがう。もっと読みたいなあ、とおもう。

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11月15日(木)

角川「短歌」9月号、「よじのぼれそう」12首(斉藤斎藤)は、一連のストーリーを、臨場感をもって読んだ。ストーリーと言っても12首なので、大きな起承転結があるわけでない。ちょっとぶらっとしてきた、くらいの長さなのだが、実況中継を見ているような、いや、もっと、視線を共有するような読後感がある。視点のおもしろさではなく、述べ表し方によって視線の共有を可能にしているところに、文体の特徴があるのではないだろうか。おなじく角川「短歌」9月号、「甑島」12首(染野太朗)も、措辞の特徴のよくあらわれた連作とおもう。「甑島(こしきしま)」へ渡って夜まで、のこちらも短いストーリーだ。何事かが起こるわけではない。「風まみれ」「花粉によごれ」「さもしさ」「悪あがき」「ぐつとふんばる」「わらふほかなし」「きつと忘れず」ということばをひろうことができる。視線というより、こころの動きのほうを共有するかのような読後感がある。

12首という連作の長さのことを考える。

「歌壇」11月号、「義祖父の葬儀」12首(小島一記)も、同じ観点から印象に残った。義祖父の訃報から一連は始まり(この一首目に、小島作品の特徴がまずあらわれている)、そこから淡々と事が進んでいく。率直なうたが並ぶ。客観的とはどこかちがうのだけれど、感情をどんどん出していくスタイルではなく、色の濃い光景がつづく。汚れや汗や息遣いまで体感されるような、読後感がある。

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その2へつづく)
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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