凡フライ日記

山下翔と短歌

最もかなし

 夕方になると豆腐屋の声が聞こえてくる、という風景を思い出す。豆腐屋さんに行くことはまずないけれど、なんとなくいいなぁと思ってしまう。物干し竿やわらびもちや焼き芋や灯油の販売、家電の回収、夕方に流れる音楽など、なんとなくだが落ち着くものの一つである。夕方の何となくものさびしい時間に、少しの安心感を与えてくれるからだろうか。

・豆腐屋のをぢさんが手にすくふとき豆腐もつともうれしさうなり
     小島ゆかり『純白光』

 豆腐屋のおじさんの手が浮かぶ。単に豆腐を売っているのではなく、そこで作られた豆腐なのだろう。おじさんの手で豆腐になり、そして豆腐として売られてゆくのだ。「手にすくふ」という表現からは、おじさんが手で器を作り、豆腐を傷つけぬように、そっとその器の中へ招き入れるような繊細さが感じられる。豆腐であるから、もちろん鷲掴みなどできない。さぁおいで、というように、優しく抱きかかえるのだ。その手つきがびくびくしていない、慎重な作業なのにそう思わせない安定感がおじさんにはある。
 豆腐が最も嬉しいときってどんな時だろうか、と思う。まるで母に抱えられた子どものように、おじさんの手のぬくもりを感じながらゆらゆらしているとき、最も嬉しそうだと言う。これから食われることへの怖れなど、多分ないのだろう。もうとっくにそういう覚悟はできているのだろうから。

・豆腐握りつぶして食べて言葉持たぬ子どもは豆腐にもつとも近し
     大口玲子『トリサンナイタ』

 子どもが豆腐を握りつぶして食べている。握力の調節が上手くゆかないのか、掴もうとして、ぐちゃぐちゃつぶしてしまうのだろう。まだ言葉を使えないくらいの年齢。そんな子どもが、豆腐にもっとも近い、という。豆腐との距離が近い、というよりも、まさに豆腐のようである、ということだろう。力の調節のできないものに、いともたやすく潰されてしまう、子どもの危うさを見出している。
 しかしその「調節のできないもの」というのも、同時に、子どもである。もちろん子ども同士の握りつぶしあいっこ、というものではない。子どもの危うさと同時に、そういう風に潰してしまう側の危うさを自分自身に見ているのだ。あるいは、周囲の大人に。それはまさに子どもである、と。

・煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし
     寺山修司『空には本』

 明日があるとか、未来には無限の可能性があるとか言う先生の姿そのものが、生徒からすれば<明日>に触れられる身近な存在の1つである。明日の積み重ねが、いま眼前に明日を説く教師の姿そのものなのだ。そう思えばこそ、煙草くさい教師の姿に、明日という言葉の無意味さや明日を生きるということへの絶望感を抱くのだろう。「あー俺たちもこうなるのか」「お前が明日を語るなよ」と。
 ここで三句「言うときに」に注目すれば、明日への淡い期待が伺える。明日というものがそもそもかなしいわけではないのだと。「本来は」もっと明るいものだと。それを汚してくれるなと。私たちには、希望の明日が訪れるのだ、と。将来に対する漠然とした不安、自由でありたい一方で責任はとりたくないという身勝手さ、どうにかしてほしいというささやかな期待、どうにでもなれるんだという希望、そういういくつかのものが綯い交ぜになって、明日という語は最もかなしいのだ。

・一皿の料理に添へて水といふもつとも親しき飲み物を置く
     安立スハル『安立スハル全歌集』

 さびしい時間に、少しの安心感をもたらすもの。それはどこかで通じているような親しさかもしれない。そういう危うさの中で、日々の生活が積み重なってゆく。気づけば、「明日」と呼んでいた時間を歩んでいる。「豆腐屋のおじさん」と「豆腐」の距離。「豆腐」と「母」と「子」の距離。「教師」と「生徒」の距離。その関係性の中にある親しさ、それを少しの拠り所にしながら、生きているのかもしれない。
 一皿の料理である。ご飯があって、お吸い物があって、おかずがあって、……というような光景ではない。一皿なのだ。そこに水を置く。その水を「もつとも親しき飲み物」と言っている。距離が近いことが親しさではない、と思う。水と我々の距離感ほどの親しさ。

 食事に出される水の何でもなさを何とも思っていなかった幼少の頃、そのことで叱られたことがある。毎日があること、食卓にコップ1杯の水があること、その「いつも通り」の何でもなさに寄りかかっていることの、かなしさが、時々こみあげてくる。
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する