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小島ゆかり『馬上』(2016年)

装丁が好きな歌集である。「馬上」と大きく金の箔押しがあり、馬の流れるようなイラストが添えられている。

     *

鎌倉山からだに入りて寝ねがたし帰りきて風すごきこの夜

鎌倉山がからだ(の中)に入ってくる、と言う。入ってくる、ではなく、入っている、というのが今の状況だと思うが、そのためには「入ってくる」という状態があったわけで、それをさも当然であるかのように「入りて」の「て」で接続していく。ダイナミックというか、きしむようなからだ(鎌倉山のからだ、そして、わたしのからだ)が浮かんでくる。そのきしみのようなものが、「寝ねがたし」につながってくるのだし、「風すごきこの夜」ともひびきあうのだと思う。

このうたの場合は、完全な情景描写ではないが、小島さんの情景描写にはぬっ、と動的なときがあって、それを魅力的に思う。

鯉よりも水はなまめく 動く身の一尾一尾をうすくつつみて
円形脱毛うまく隠して七月の風よくかよふホームに立てり
次の次の駅で降りたくドアの方へドアの方へと身を捩(よぢ)るなり ※捩は旧字

「あたたかき感情」という一連から、ひとつづきの3首を引いた。この1首目の、鯉の動きと比較することによって、「水はなまめく」が鮮明にせまってくる感じ。先の鎌倉山のうたと通じるところがあるだろう。もちろんはじめは、「鯉よりも水はなまめく」に意表をつかれるのだけれど。2首目は円形脱毛をうたって、「風よくかよふ」の韻律がここちよい。この平然におどろく。(この「平然」というのは、小島ゆかり作品にこもる気迫のようなものを支えている大事なところだと思う。)3首目は気分もよくわかる。「次の駅」ではなく、まして「この駅」でもなく、「次の次の駅」というところが、満員(あるいはそれに近いような)電車の現実をとらえている。だからこそ「ドアの方へドアの方へ」というのにも、体感そのもののあらわれを感じる。まさしくこのように、計画的に、ドアの方へドアの方へ身体を移していく。

前の人の体温残るタクシーにふかくすわりて体温残す
君の名をのどぐろと知りし日ははるか無念いつぱい喉(のど)に溜まりぬ

1首目、「体温残る」はよくわかる。タクシーでは経験ないが、バスや電車などではよくある。直ちに座ることがやや憚られる。そういうときは、隣にずれたりする。タクシーの場合は、前の人がおりてすぐ乗る、ということが少ないのかなあ。乗ってしまえば隣にずれる、ということもしづらい。であるから、これは単に「あるある」という話ではなく、ここには「えっ」というおどろきも含まれている。そこで「体温残す」というのは、確かにそうなのだが、事実にとどまらず、体温に体温をかさねていくことをことさら意識していくところに、不思議な感覚があるうただ。2首目、下の句がまさに、という感じ。

ほかにも〈渓川の石間(いはま)を走る夏のみづ若きとかげのやうに光れり〉〈かぜのなかをあそぶとんぼの数ふえてとんぼのなかをふくかぜになる〉といったうたに、同じようにひかれる。

     *

「石鹼」という一連がある。挽歌ということだろう。牛乳石鹼のにおいが過去と現在を取り結ぶようにながれている。

おろしたてのしろい牛乳石鹼のにほひのやうな冬はもうなし
未来まだ白い個体でありし日の真冬のあさの牛乳石鹼
洗面台で泣けば石鹼のにほひせり父もう覚めぬ冬の病室
石鹼はむかしの朝の匂ひなりむかしの朝の父のひげ剃り

「冬はもうなし」「未来まだ白い個体でありし日」というところに、ただならぬ感じがにじんでいる。読みながら緊迫してくる。これらのうたは、牛乳石鹼のことをうたって、牛乳石鹼のうたではない。かつて流れていた時間や、そこにあった関係や、思い出やなつかしさが浮かんでくる。無念もにじむ。そして3首目。「父もう覚めぬ」、なのに、ここに石鹼のにおいのあることのかなしみが「冬の病室」に満ちている。4首目。「むかしの」と言ってしまう強引を、けれどもそれを、くりかえし声に乗せることで、この状況を引き受けていこうとするうたい口である。「平然」であり、そこに「気迫」がこもる。

家や、家族をみつめる眼差しは、もうずっと、小島ゆかりのテーマのひとつである。

その家の扉のごとし帰りゆく一人一人の夜の背中は
ゆるみたる捻子締めんとき家中の捻子がわたしもわたしもと呼ぶ

1首目は一人一人の背中に「家」を見ている。「家の扉」と言っているので、まずは「家」という建物のことを想定するけれど、でもまあ、それだけじゃないよなあ、と思う。直喩でもあるんだけれど、そこには隠喩もあるというか。2首目の「家」はまっすぐに建物の「家」だろう。「わたしもわたしも」という声は、にぎやかにひびくか、重荷のごとくひびくか。ほかに〈ハイエナは家族愛ふかき獣なりグレーのコート羽織ればおもふ〉といううたもある。

梅干しのおにぎり食めばまたなにか力要(い)ことできるとおもふ
ピーマンと茄子を炒めてつやつやの食欲湧けり真夏のひぐれ

家ということ、家族ということをうたうときに、そこに差し挟まれる元気を出す歌、パワーをつける歌、それも食べ物のうた、というのがずしりとくる。梅干しも炒め物もうまそうだ。

陽のにほふタオルかかへて 母よりも先に死んではいけないわたし

この「〜してはいけない」式の思いがわたしに重くのしかかる。ふとしたときに立ち止まり(この一字空け)、そのことがはっと意識されるのだ。「陽のにほふタオル」は「牛乳石鹼の匂ひ」とかさなってうつる。

     *

もうひとつ、外側を見る眼差しがある。

おそろしく月球潤む夜のこと子どもの臓器運ばれゆけり
花見弁当ひらけばおもふ ほほゑみに肖てはるかなる〈戦争放棄〉
そして四年、時間はながれみちのくに通雅さんと飲む夏の酒
海鞘(ほや)たべて海くさき海鞘あぢはひてなんにも言へずよそ人われは
リードにてつながる犬と人見れば人間である自分がいやだ

月球潤むと臓器移植。「おそろしく」には美しさ極まることの不気味がうつる。2首目、本歌取り。小島さんには政治を直裁にうたった歌もままあるが、こういう鮮やかな展開のうたにひきつけられる。3首目、4首目は同じ一連から引いた。東北、東日本大震災ということがある。「そして四年、時間はながれ」の流れるような歌いだしが季節のゆるやかにして迅速なめぐりを伝えてくる。夏の酒の一場面がぽっと浮かび上がる。「よそ者」でなく「よそ人」とうたうことで、苦み一辺倒にしない。そして5首目、こうやって「人間」や「人間であるところのわたし」を見つめる。見つめやまない。



※歌の引用はすべて歌集『馬上』(現代短歌社、2016年)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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