凡フライ日記

山下翔と短歌

光もともに

・秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く
     佐藤佐太郎『帰潮』

 電車に乗っているのは〈私〉であろう。しかしここでの主役はやっぱり「光」にある。光景としては電車の床に光が差しているだけなのだが、それを自覚した上で、一つの錯覚を提示しているのだ。ここでの錯覚とは、もちろん勘違いの意味ではない。そのように感じられたという感受性や、そのような表現にした作歌の態度や技巧の全体にある一種の特殊性を表している。
 秋分の日というのは、夏真っ盛りにあってかすかに秋の気配が感じられ出す日である。ここでは「光」のかすかな弱さに秋の気配を感じ取っている。

 「光もともに」とあるが、次の一首が連想される。こちらは秋から冬のはじまりにかけての歌だ。

・雲はゆく雲に残れる秋の日のひかりも動く黒し海原(うなばら)
     若山牧水『海の声』

 雲が動くと、そこに残っている「秋の日のひかり」も一緒に動いていく。大きな動きの中にも細やかな視点がひそむ一首だ。
 四句切れで、結句が倒置になっている。雲や光のダイナミックな動きを、それとして受け止めながらある海の黒さが、結句でずっしりとくる。秋もずいぶん深まった頃だろうか、冬へと動きゆく季節のうねり、その感触がおおらかに詠われている。

 冬の自然には冷たくつきはなすような怖さがあるが、その分、日常はおだやかである。

・「白いのがひかり、明るいのがさむさ、寒いからもう電車で行くね」
     吉田恭大『早稲田短歌40号』

 「白いのがひかり」と言われて雪を連想した。「寒い」と直接言っている下の句と、その寒い状況を丁寧に切り取った上の句の対称性に惹かれる。実際は雪がどうだとかそういう歌ではないだろうが、冬の生活のおだやかさが滲んでいる。
 上の2首と同じく、目で季節を感じている。分析的な「ひかり」や「さむさ」はひらがなで書かれ、目で感じる「白い」「明るい」は感じで書かれている。目で冬を感受しておいて、それがいわゆる何にあたるのかを自分の中に呼び起こしていく、把握していく、そういう生活するものの生々しさがある。

 この歌でも〈ひかり〉が状況の説明のための道具ではなく、そこにあるものとして詠われている。「ひかりが差してあたたかい日」とか「ひかりに包まれて」とか何かを詠うためのスポットライトではない〈ひかり〉の詠われ方なのだ。

・ふんすいのひかりゆれつつまぼろしに沐雨のしろき象の群れ見ゆ
     小島ゆかり『歌壇(2006.5)「沐雨の象」』

 「ふんすいのひかり」が「まぼろし」の世界への入り口になっている。その「ひかり」をぼんやりと見えていると雨で体を洗う象の群れが見えたのだ。まぼろしの方が鮮明であるという、これもまた錯覚のような感じがする。上句のひらがながきが、現実のぼやぼや感、それに続く下句の漢字の使い方が、幻の鮮明さを表している。「しろき」象であるところに、やはり幻であることの確信もあるのだろう。
 強いひかりもあれば淡いひかりもある。水との親和性がいいのだろうか、あるいは動くものとの親和性がいいのだろうか。〈ひかり〉はいろんなものにふりそそぎ、そしてそれらとの親和性をもって存在し、認識されるのだろう。
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