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東直子『十階 短歌日記2007』(2010年)

東さんの歌について、ずっと不思議におもっていることがひとつあって、それは字足らずの歌である。

字足らずに気づいていないのではないか、と思うくらいには、あきらかに違和感があるのに、しかし自然な表情で音数が足りていないことがあるのだ。「気づいていないのではないか、と思うくらい」というのは説明のためにそう言っただけで、実際に気づいているか否かは問題ではないし、ここでの話題でもない。独自の韻律感覚があるなあ、と思うのだ。きっと、わたしの音読とはちがう、一首の読み下し方があるのだろうと。

黄色い花だけあればいい あとは全部持っていってね (1/31)

だから、この歌はむしろはっきりと(しかも一字空けによって、より一層はっきりと)三句が欠落していることがわかるので、不思議でもなんでもない。「黄色い花だけあればいい」の「黄色い」とか「だけ」とかを浮遊させておくだけの空間が必要だし、それがあることによって、「あとは全部持っていってね」がすんなりと受け入れられる。しいて言えば、四句の「あとは全部」の字足らずが気にはなる。ただ、ある程度は、その前の一字空け・三句欠落のエネルギーに回収されているからなのか、初読のときにはつまずかなかった。

(五/七/五)/(七/七)という定型をどう捉えるか、というのは大きな話題である。

5音、7音、5音、7音、7音というそれぞれのかたまりを意識しつつ一首を構成する、というのが一般的なのだろうか。どうだろう。トータルで31音になっていればとにかくよし、そこにきっちり音を詰めていく、というスタイルもある。このスタイルは、読者のわたしにとっては少し息苦しい。うまくやらないと、読んでいて心地よくないのではないか、と思ってしまう。でもそれも、単に、読み方の問題なのかもしれない。

作者のわたしは、5音とか7音ということをまったく意識しないというわけではないが、それを絶対とはしない。5音、7音、31音ということをふだんは忘れている。そしてそれは、多くの場合、字余りを引き起こす。それがなぜかはわからないが、そういう作者であるところのわたしが読者になったとき、字足らずに意識がむかうのは自然なことなのだろう。

そういう事情を差し引いても、東さんの字足らず(と呼ぶのもなんだか的外れのような……)は気になるし、やっぱり不思議だし、魅力を感じる部分と、わからないと感じる部分とがまじったままである。

日当りの順に花がひらきゆく小さな皿の割れゆくように (3/24)
あの窓の中に時を置いてきたもう取りにいくことはできない (10/24)

これらの歌はどうだろう。二句に字足らずがある。「順に花が」、「中に時を」。たまたまなのか、構造も似ている二首である。私の違和感のおおよそはこういうところにあると思う(それでも、ピンポイントではない)。どう音読するのがいいのだろう。「順に、花が、」「中に、時を、」と読点をはさみながら読んでいる。そこでなにかを確かめるような感じがある。読み流してはいけないと言われているような感じもある。

それでいいのか。もしかしたら、上の句全体を一息に読むのがいいのではないか。あるいは「日当りの順に/花がひらきゆく」「あの窓の中に/時を置いてきた」と読むのがいいのではないか。いくつか想定してみて、困ってしまう。どれも、よさそうでもあるし、どこか違うような気もするからだ。

     *

さて、ここまでの話はいったんおいておいて、韻律のことをもうひとつ言えば、リフレインの魅力がある。

裏側に咲くのが好きな花もある町へゆこうか誰とゆこうか (3/19)
男たちの悲鳴のような海鞘(ほや)かめばほのぼの甘しそののち苦し (5/3)
まだ土を知らぬ足裏しめらせて眠る子泣く子見つめやまぬ子 (6/11)
ときどきは名前を変えて呼んでみる カケル、タカトシ、シズク、水鳥 (7/8)

1首目、2首目は「裏側に咲くのが好きな花もある」や「男たち」「悲鳴のような」のような視線やことばの掴み方に東さんらしさがあると思うので、下の句のオーソドックスなリフレインは、あくまで、そこからの接続としてあるものだろう。と思うけど、レフレインというのは、韻律の力をつかって詩的飛躍をスムーズにするものである。一首の世界、とくに比喩や抽象の世界に読者が入っていく場合には、おおいに助けになるものだ。そういう点で注視した。

3首目、4首目の下の句のリフレインの形はさらにのびやかにイメージが展開していく。あるいは、より細かく世界が描かれていく。とくに4首目は、名前の羅列に妙な説得力があって、一発で覚えてしまった。

十階の窓より見える六階の空家の中の青い引き出し (7/27)

この「の」の重畳は、佐佐木信綱の〈ゆく秋の〉と同じ作りだが、上で挙げたようなリフレインの延長にあるような気もしてくる。読者を、いまいるところから、別の世界につれていってくれるエスカレーターのような「の」の重畳である。

     *

その、一首の世界のことである。ものや人の存在感が異様にあるうたがある(たとえば8/11の〈夏の朝めざめ損ねて湿りたる粘土細工のからだ重たし〉もそうだ)。一方で、ほとんど祈りのような、透明感だけがあってものや人の存在感のうすいうたも多くある。

あれが最後だったんだなあと思うのか光る窓へと手をふっている (1/21)
エレベーター開きあなたが現れてはじめて出会うひとに思えた (2/22)
ただそばにずっといてくれるだけのたったひとりの人ほしかった (3/11)
片寄りて花びら池の面(も)に腐る そんなふうでも愛したかった (4/9)

1首目、「光る窓へと手をふっている」で相手の存在感がうすくなる。もう窓しかない。あるいは光しかない。2首目の「はじめて出会うひとに思えた」も、あなたは「あなた」であるというより、「あなたというもの」という感じだ。3首目、「たったひとりの人」の不在感は、「人ほしかった」という助詞の省略によって際立った。「そんなふうでも(いいから、とにかく)愛したかった」でも、もうかなわない。4首目も、手をのばしても、もう届かないものへの思慕がある。

     *

凛としたうたにも魅力がある。こんどはすっきりと、相手の顔が見えてくる。ものが、鮮明に色をもつ。

草の影にいた少年が葉の裏の青年になる 夏がはじまる (4/27)
きみは今だれがいちばん好きですか砂場の奥にしずむ王冠 (5/12)
夏休みの初日の朝のうすぐもり短い髪の兄のくびすじ (7/18)

1首目、ぼんやりとした少年から、輪郭がでてきて青年になる。それが、「草の影」と「葉の裏」でかきわけられている。2首目、「きみ」にとっての「今」や「いちばん」がずっとそうではないけれど、それが、だからこそ存在感をおびてくる。わたしにとっての「きみ」は、「あのころ」の「いちばん」だったのかもしれない。3首目、「短い髪の兄のくびすじ」が印象深く浮かび上がってくる。上の句の状況が、臨場感をかきたてる。

いま夏なので、こういう夏のうたにひかれるのかもしれない。



※歌の引用はすべて歌集『十階 短歌日記2007』(ふらんす堂、2010年)に依ります。
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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎『温泉』ご購入はこちらから。現代短歌社のオンラインショップです。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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