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1首鑑賞273/365

引越しの片付け途中に消えた子がローソンの爪切り提げて戻れり
   平山繁美『手のひらの海』

     *

母子ふたりの生活から子がひとり立ちをする。引越しの片付け、荷造り(あるいは荷解き)をしながら、ふいに爪切りの要ることに気づいてふらっと買いに行ったのだろう。ちょっとしたものであればたいていコンビニにある。爪切りひとつのために出かけて何でもないような顔で戻ってくる。けれどもそのことが「ふたり」ではなく「ひとりとひとり」を突きつけてくる。ふたりでいたころにはそれと気づかないものがたくさんある。あれもこれも必要とおもって買ったから家にあるのだ。こんどはそれを子が、自分でひとつひとつ揃えていく。

今日からは互いに一人子にひとつわたしにひとつ爪切りがある

連作はこうつづいて閉じられる。切ない一場面である。
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短歌日記273/365

10時起床。斎藤茂吉『たかはら』を読む。

     *

天丼は〈てんや〉に来たり紅しやうがかきくづしつつ飯をすよしも

島本ちひろ『あめつち分の一』(2019年)

「コスモス」所属の著者による第一歌集。一首一首、ことばを緊密につめていくうたの作りが印象にのこった。

月光がベランダに降(ふ)り「憶い出をのせる木馬があります」と言う
冬だねと言い合うためのこたつですぶつかる足も嬉しいんです
さざなみのひとつひとつに過去があり観音崎の風 縹(はなだ)

Ⅰ章より引いた。多く「恋」のうたが並ぶ。

一首目、ベランダに月のひかりがさしている。それを「降る」と言う。そしてその月光が「『憶い出をのせる木馬があります』と言う」とうたう。月光が主語であることを示唆する「降る」なのだ。「思い出」ではなく「憶い出」であるところにも、措辞へのある視線を感じる。二首目はわりと自然なうたい口だが、下の句のリフレインによってイメージが更新されている。三首目、「さざなみのひとつひとつ」がかかえもつ「過去」に着目する。その眼力が、風に「縹色」をも見るのだろう。海に向かって立ちながら風をあびるひとりの姿が浮かんでくる。「緊密」が、だから散漫にならない。

     *

目次をひらいてみると、どのタイトルも四文字で統一されていておどろく。だからどう、と言うことでもないのだが、こういうところにも「緊密」ということがあらわれていよう。あるいは章ごとのテーマも、Ⅰ章が「恋」のうたであれば、Ⅱ章は「子」のうた、というふうに、おおよそ統一されている。ところがⅢ章、すこしうたの雰囲気がかわる。歌数のおおい連作のなかで、うたがのびやかになっていく。あるゆとりがうまれているように感じた。

一息に氷を放ち空っぽになった製氷皿を見ており

製氷皿にできあがった氷を取り出すと、空っぽになった窪みが並んで見える。それをじっと見つめている。たしかに製氷皿の背を押すとひと呼吸に氷が取り出せる。「一息に氷を放ち」とはひとつにはそういう描写だが、ここには先述の「緊密」の残り香が感じられる。しかし「空っぽに」以降はごく自然にことばが置かれているふうで、「緊密」とはちがったところでうたが成立している。

柿の実をぽとりぽとりと手放して柿の木はまた独りになりぬ
積載は750キロまでのこのエレーベーターに象は乗れない

一首目、柿の木が柿の実を「手放」す。これは月光を主語に据えた視線と同じだが、柿の木、柿の実のくりかえし、「ぽとりぽとり」というオノマトペ、それから「また独りになりぬ」というクロージング。一首の幅をひろげるような、ことばの運び方がある。二首目はまたちょっと種類のちがううただが、「緊密」とはほど遠い一首である。「エレベーター」に「象」を乗せられるか、乗せられないか、という比較の視点をもちだしたことによって、読者はその土俵において、ものを考えることになる。

猫だった頃に出会いたかったなあ息子の髪を洗う霜月

歌集もおわりに近いところに置かれた一首。これも初句から引きずり込まれて読まされる。「猫だった」かどうかを考える余地なく、かつて「猫だった」という前提で、読者はうたに接するのだ。まだ小さい「息子の髪」を洗っていれば、大人や母としてではなく、猫として、ほとんど対等に、あるいは友だちのようなこころとからだで接していたいなあ、という感慨がわくのだろう。

     *

月光が「降る」ことも何か「言う」ことも、さざなみのひとつひとつの「過去」も、風の「色」も、柿の木が「手放」すことも、「独り」になることも、猫だった頃の「わたし」も、全部、空想といってしまえば、それだけのことかもしれない。しかしそこには、「おもいみよう」とする眼差しがあり、またそれをさそうような光景や体験や感触があり、そしてそうおもってみることによってあらわれる、新しい別の世界がある。ここには、ことばを「緊密」に組み上げることによって作られた手元の小さな世界ではない、もっと大きななにかへひらけていく予感が満ちている。

現実と空想の隙間をぬけると、そこにまだみぬ別の世界があるような、そんな感触をもちながら読んだ歌集だった。


※歌の引用はすべて歌集『あめつち分の一』(六花書林、2019年)に依ります。

1首鑑賞272/365

(つま)のきみ死にてゐし風呂に今宵入る六十年を越えて夫婦たりにし
   馬場あき子『あさげゆふげ』

     *

風呂場で亡くなっていた夫、岩田さん。その風呂に、「今宵入る」。おのずから、といふうにかかれているが並のことではないとおもう。「夫婦」というものが——形はいろいろあれど——わたしにはよくわからないので、そう感じるだけなのかもしれない。しかし「夫のきみ」の死というものが、この距離感にいたるまでにはやはり「六十年を越え」る歳月が必要だったのだろうともおもう。「夫婦たりにし」のひびきは重い。

月桃餅すこし残るをあたためて分かち食うべぬ最後の昼餉
亡き人はまこと無きなり新しき年は来るともまこと亡きなり
墓などに入れなくてよいといふであらう本質はさびしがりやだつたあなた
衛星のごとく互(かたみ)にありたるをきみ流星となりて飛びゆく

歌集には、こういう挽歌が並ぶ。あとになってわかるささやかな「最後の昼餉」。「あたためて」「分かち」に、岩田さんの体温がのこる。「まこと亡きなり」のリフレインがつらい。「新しき」と「亡き」「無き」の対比が率直であればあるほどせつなくなるのだ。「あなた」の「本質」にとどこうとする。あるいは「あなた」と言って呼びかける。もう二度とない二人の会話というものを、さかのぼって夢想する。「衛星」のごとく「夫婦たりにし」二人。「きみ流星となりて飛びゆく」が、消えてしまえばあっさりそれっきりの命というもののはかなさを、つきつけてくる。

短歌日記272/365

9時起床。初めていちじくを食べる。

     *

乾燥機より取り出せばやはらかしぬくとし布の感じうすれて

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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