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連作覚書2018(その2)

ずいぶん長くなってきたので、2つに分けます。(その1はこちらからお読みください。)

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11月16日(金)

うたがいくつか並んだものと、連作と、なにがちがうのか。あるいは同じなのか。たとえば総合誌に掲載の作品は、〈作品○首〉という書かれ方で目次に載っていることがあり、それは連作なのか、そうでないのか。「印象に残った連作」という視点で総合誌をめくるとき、「連作」ということがどこかで枷になっていて、大事なうたや、うたの集まりを、見逃しているのではないか、と不安になりつつある。

「現代短歌」2月号、「冬の花束」13首(岩尾淳子)は一連にたとえばストーリーのような流れ、あるいは時間の流れや場面の連続的なうつりかわり、といったものがにわかには感じられない。〈色褪せたプラスチックの馬の背にまだあたらしい水の粒つぶ〉、公園の馬の乗り物だろうか、連作の2首目を引いた。1首目に「雨あがり」とあって、それをふまえて読む。1首目がなければ、室内のうたを想定したかもしれない。こういうふうに、確かに、立ち止まって1首1首を読もうとすれば、前後のうたとの連関というのが全くないわけではない、ということはすぐにはっきりわかるけれども、一読したときの印象はそうではなかった。眼差しでも、体感でもない。だからといって、抽象や観念かと言われると、そうでもない。1首の立ち姿や、連作(と、ここでは呼ぶけれども)の現れ方が、昨日読んだ3つの連作とは全く違うなあ、と思わされる。

好きなうたは、〈ふゆ原はこころが遠いその背中に触れたいようなゴルフ練習場〉〈見下ろせば海かもしれずベランダに何も持たない月が来ていた〉など。景だけがあるわけではないのに、それを視ているはずの誰かの姿、存在感が薄い。しかし、景だけではないゆえに、たとえば「その背中に」や「見下ろせば海かもしれず」などが差し挟まれることによって、無自覚のうちには視線を共有することができず(わたしにとっては)、あるいは体感を共有することも難しい。けれども、いいなあ、となる。1首1首について、長く考えたり、味わったりできる作品、ということだろうか。

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11月17日(土)

短い連作、ということで心に留めているのは、たとえば小池光の「砂糖パン」(『思川の岸辺』所収)や「存在」(『静物』所収)である。小さな話題でごく簡潔なまとまりなのだが、一連に完結した感じがあって、一方でじわじわ広がっていくような在り方をしている。

「短歌研究」5月号には、7首の連作が100篇も掲載されている。小品と言えど、これだけの数が揃えば丹念に読むのは正直しんどい。通して読んではみるもののどこか拾い読みの感が否めない。「宿題」7首(穂村弘)は、『水中翼船炎上中』にも見られるような、子どもの頃のうたが詰まっている。〈友だちの家で宿題していたら犬が庭から嘗めに来た夏〉〈しもやけでグーが握れぬ登校の朝にしゅーしゅー噴いている湯気〉。一連7首のなかに、夏のうたと冬のうたがあって違和感がない。「顔に出る」7首(大松達知)は、話題はいくつかあるのだけれど、それらがおのずとまとまってある。たとえば〈未来とはとにかく明日 ぎんいろの鍋に緊まれる日本のカレー〉というような、思想信条を出すような一首があることによって、それに引き寄せられるようにほかのうたの具体が活きているのかもしれない。短い連作にまとまりを出すひとつの方法のようにおもう。

「鳥の家」7首(奥田亡羊)は、もう少し長い連作でこの話題を読みたいと思った。「自立援助ホーム」の光景がぽつぽつと書かれていて印象深い。〈家のない少女三人が平らげる三合の米 ざくざくと研ぐ〉など。「春雨の中」7首(小池光)はやや約まった韻律が特徴の一連だ。それよりもなによりも、〈時間の物質化として墓は濡るる「小池家代々墓」はるさめの中〉という一首ではひらがな書きの「はるさめ」が、題では「春雨」となっていて、この抑制が小池光だなあ、と妙に納得する。「城跡にて」7首(三枝浩樹)は、題のとおりのささやかなスケッチなのだが、三枝浩樹のこのソフトなタッチは、延々とつづくよりも、こういう小品で活きるのかもしれない、と少しおもった。〈人老いて町老いて時がゆきすぎぬ城跡に会う春のあおぞら〉、一連は具体から抽象へゆるやかに移っていくのだが、その中程にある一首。配列あってのことだろうが、「あおぞら」が抽象のものとして迫ってくる。

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11月20日(火)

「短歌往来」6月号、「ライオンと子羊」13首(清水正人)は、なにか読んだことのないうただった。〈切り分けし夜の小口のくれなゐを春とこそ呼べあけぼのと呼べ〉における夜を小口切りにするという奇想を、当然のごとく「切り分けし夜の小口の……」ともってくる。〈さざなみがくるぶし撫でて水になる 別れ話はまだ続いてる〉も、「さざなみ」が「水」になる(成る)という把握が自然にうたわれる。一連の雰囲気も印象にのこった。

「歌壇」6月号、「姪の浜行き」12首(大井学)も、一連の雰囲気が印象深い。〈雉鳩がてこてこてこてこあゆむなり実も虫もなき春痩せながら〉、「てこてこてこてこあゆむなり」にわらうのだけれど、下の句で、もうひとつ踏み込んでいくところに姿勢をもどされる。〈鈴蘭をちゃんと見たくてしゃがみたり唐突にしゃがむおじさんわれは〉では、下の句に虚を衝かれる。〈ゆうぐれの空の低きをよぎるもの初燕なりおかえりなさい〉。「てこてこてこてこ」「唐突にしゃがむおじさんわれは」「おかえりなさい」あたりに、ひとつ一連12首を取り結ぶ情感があるようにおもう。具体的な動物、植物、人間がえがかれて、その距離感に独特がある。

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11月21日(水)

「歌壇」7月号、「どんたく見に行く」5首(野田光介)は「年齢をどう詠むか」という特集に寄せられた一連。〈グラウンド・ゴルフで転ぶ、五首つくる、どんたく見に行く、八十三歳〉という一首ではじまる「八十三歳」の5首だ。齢というものを、5つの角度から見せられるような読後感がある。軽妙というよりも、アイロニーの眼差しがある。おなじく「歌壇」7月号、「思案橋ブルース」12首(染野太朗)は、以前挙げた「甑島」と同じように、ある種の旅の一連である。どこか「旅行詠」とは呼べない感じがあって、緊張する。土地ということと、そこに暮らしがあるということ、あるいは風土、慣習、またそこに人が集まり、からみあい、育ち、また入り交じり、の、その只中にいるような12首だ。

「短歌往来」7月号、「青い葉」6首(花山周子)にも、ある緊張をおぼえた。〈ドラえもんになりたいというわが娘その発想はわれになかりし〉には動揺というよりも、平然におどろく。〈どういう加減で子は美しくなるだろう睫毛から流れ出す胞子の光〉の、上の句は、花山作品におりおり見られる眼差しだが(そのつどおどろく)、そこから結句で「胞子の光」までもっていく力の(一首の)はたらきに、圧倒される。

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11月22日(木)

「短歌研究」9月号、「平成じぶん歌」から「〈気付きの〉奥村短歌は成りぬ」30首(奥村晃作)「チョークの匂ひ」30首(松本典子)に注目した。奥村作品は、題(この明け透けな感じにもおどろく)が示すとおりの〈奥村短歌〉の一連で、ますますヒートアップしてきた、というか、題詠で活きてくる歌風なのだなあ、と思わされた。松本作品は、韻律ゆたかな一連である。だいたいがこの「平成じぶん歌」というのは〈事〉を詠わんがために、ふだんは見られないような字余り・字足らず・破調などなど、多く見られてきたのだが、単にそれだけではない、作風との交わりを感じた。〈おもへば二十歳のわれの背伸びよ並木座に「東京物語」わかつた顔で〉〈くせの強いあなたの文字をさがす駅の伝言板 白いチョークの匂ひ〉〈「これに歌を吹き込んであるの?」と岩田正に言はしめて薄しフロッピーディスク〉〈アイボとふ犬型ロボット棲まはせむひとりゐの母とわれのすきまに〉などが、特にこころに残った。

角川「短歌」5月号、「点滴の夜」7首(高島裕)は、飼い猫の「饕餮(たうてつ)」を看病する一連。しずかな夜の時間と関係性と記憶とがえがかれる。〈晩秋の淡きひかりを享けながらなほ腹見せてよろこぶ日あり〉。先に引用した〈アイボとふ犬型ロボット棲まはせむひとりゐの母とわれのすきまに〉(松本典子)もそうだが、人と人との間に、あるいはひとりの人生の傍らに、人ならざるものが介在し、また寄り添う、という場面(たとえば佐佐木幸綱の「テオ」をめぐる作品群)は、これからもっとひらけてくるのではないか、と、なんとなくだが、おもう。

「歌壇」8月号からは、「舞う夏蝶」7首(前川明人)がどうにも気になった。うたのアイテムの持ち出し方だろうか、この一首、というのを選ぼうとして読み返すのだが、どの一首も、「この一首」という形ではひろいあげることができず、しかし、もう一度、もう一度、と気になって読んでしまう。いつか手が届きたい。

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11月23日(金)

総合誌も12月号が少しずつ届いてきた。あと3ヶ月分くらいでひととおり読みかすことができそうなので、そのあとで、もう少し数を絞りたいとおもっている(ずいぶん増えてきたので)。具体的には、

(1)10首未満の連作
(2)10首以上20首未満の連作
(3)20首以上の連作

から、それぞれ(たとえば)「今年の5篇」を選ぶ、とか。(来年は毎月ちょっとずつ記録しておこう……。)

「現代短歌」10月号は、作品連載から「こどものぬりえ」24首(山本夏子)「熱砂」24首(大森静佳)を挙げる。この「熱砂」24首は、今年の大森作品のなかで、ひとつ飛び抜けて、わたしには受け取られた。連作のはじめからぐんぐん来るのだが、それほど大振りでもなく、しかし確実に跳ね返ってくるような感触で、遠心力をうまく制御するような力を感じた。どのうたも、ひとつずつ引いて書きたいくらいなのだけれど、そういう一連にあって、連作の特徴を端的に示すうたとは別に、〈目薬をさしてふたたびあなたを見る夜の浜木綿ひかっているか〉〈手を伸ばしてもいいですか闇のなかカルスト地形に火星ちかづく〉といううたに惹かれた。

角川「短歌」10月号、「それぞれの夏」28首(香川ヒサ)は、夏をめぐるさまざまなことがうたわれて、多彩で、複雑な思いがにじむ一連だ。そのバラエティと、それらを取り結ぶひとつの眼差しが印象的だった。冒頭2首目、〈夏の雲立ち立つ午後を窓の辺に三角巾で腕を吊る母〉とあって、入道雲と三角巾の形状、質感、色彩が並べられる。母の佇まいが絶妙の存在感を出している。

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11月27日(火)

「それぞれの夏」から、もう少し歌を引く。〈あぢさゐが白く乾きてゐたりけり終戦の日に正午の時報〉〈喜んで伺ひますと返信す感情は約束できないものを〉〈渋谷川に卵のからがながれ居て茂吉も少し一緒に流れた〉〈このやうな背中を持つて窓の外眺めるんだよ夏の終はりは〉。「それぞれの夏」という題で、話題はゆるやかに展開しながら、「それぞれ」さまざまなことがうたわれている。そしてそれが多くの場合、「正午の時報」「感情は約束できないものを」「茂吉も少し一緒に流れた」というふうに、最後の最後まで粘り強く、ひとつ踏み込んだ形で提示される。また、「眺めるんだよ」「一緒に流れた」という口調もあれば、「ゐたりけり」という結び方、「できないものを」という止め方があり、「ながれ居て」のひらがな「ながれ」漢字「居て」の書き分けあり、と、目で読んでも、口に出しても、さまざまバリエーションがあって、ストーリーではないところで、一連を読まされる。

「短歌研究」10月号、「平成じぶん歌」は第五回。「光る夕立」30首(吉川宏志)は、とくに初期作品に感じられた暗くて重い感情表現が、濃厚な一連だった。〈絨毯の或る模様まで歩みゆき手を取れという 白き手に触る〉には「平成五年 結婚」と詞書がついているのだが、「或る」「取れという」という、他人事のような眼差しが不穏だ。「白き手」という象徴的な書き方ともあいまって、おだやかでない印象を受けた。〈運動の苦手な我は教えられず ラケットひるがえす子を見守りぬ〉における「運動の苦手な我」という直截や、〈祖父の顔を死ののちも舐めていた犬が後ずさりして低く唸りぬ〉というじりじりとした描写に、血の気の引くような迫力がある。批評の眼差しが他者に向くのと同様に、自己にも、同じくらいの筆圧で向いている、ということかもしれない。

おなじく「短歌研究」10月号、「#メンヘラ・フォーエバー」30首(野口あや子)は、「メンヘラ」というひとつの筋に貫かれた一連。なにかひとつのものと付き合いつづけ、それがある時間的・身体的な量になってくることで、あらわれてくるもの、踏み入ってしまうところ、の力というか、はたらきというか、そういうことをおもう。

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その3へつづく)
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連作覚書2018

印象に残った連作を、連作という単位で記録しておきたいという気持ちになって、少しずつ振り返っている。いくらかたまるまで、ここをメモとして使う。(随時更新します。)

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11月3日(土)

角川「短歌」2月号は、まず「滅多にみないテレビから」28首(渡辺松男)が衝撃だった。マラソンと駅伝をテレビで見て、それをうたった連作である。〈視る〉というときの、眼力といったらいいのか。「別れ」20首(馬場あき子)は岩田正を悼む一連で、生々しい現場感と、歳月の帯のようなものが翻る連作だった。

「短歌研究」1月号は、「平成大東京競詠短歌」という特集。「中央区」の担当は小池光。題があるページもいくらかあるが、ないものもままあって、さしあたりこの「中央区」というのを題としておく。あらためて「中央区」15首(小池光)を読むと、小池光のうたの一面として固有名詞があるのだなあ、と思わされる。土地のことや、事の仔細はわからないのに、臨場感を引き連れてくる。この特集は「競詠」ということであって、読み比べの楽しさがあった。連作の展開の仕方もさまざまある。

「歌壇」3月号。「グリーンフィールド」20首(花山多佳子)は友の自殺をうたった一連で、現実と回想の往来のスムーズなところに唸った。2首目、3首目の順序が、自然に4首目以降の回想につながる。それが13首目あたりでほぼ現在へかえってきつつ、14首目ではっきりと今があらわれる。つづく15首目もどこか暗示的で、最終的には今のうたに還ってゆくのだが、なにか読者として、連作を通過したような読後感をもった。

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11月4日(日)

「現代短歌」1月号、「はちみつクレヨン」24首(山本夏子)は、どの1首も、1首完結の魅力がありながら、それが束になって迫ってくる。この、1首完結は山本作品のひとつの特徴で、それが連作のなかで相殺することなく束状になって、一連としての力を持っている。

「短歌研究」2月号は、「豆電球」10首(小島なお)がよかった。10首の連作といえば短い部類に入るとおもうが、小品には小品のあじわいというものがある。ここでは、「雪」というものを核に、恋というものがうたわれる。ほっ、と灯る一場面である。具体的なモノと、そこにただよう(あるいは、感じ取ってしまう、見てしまう)気配の一連だ。これは延々と長い連作で展開すると退屈になってしまうので、やはりこの歌数ならでは、ということになるだろう。

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11月5日(月)

挽歌ということをおもう1年だった。「短歌往来」2月号、「イサファガス」33首(大松達知)は父を、「短歌研究」7月号、「ほくろ」30首(小池光)は母をうたってそれぞれ印象的だった。大松作品は、回想をまじえながら死の前後を一定のテンポで描写していて緊張感がある。一方、小池作品にはどこかやすらかなるところがあって、哀切とユーモアのあわいをいくような読後感があった。

角川「短歌」3月号、「こわれた」28首(大島史洋)は、題のとおり「こわれた」に貫かれた一連である。「枕辺のこわれたラジオ」に始まり、(精神的に)「こわれてしまえ」と叫び、「日本語がこわれる」「人間がこわれて」「私はこわれはじめた」「こわれてしまった万年筆」「こわれてしまうひとりの時間」とうたい継がれていく。話題はさまざまだが、それらを「こわれた」が取り結ぶことによって、散り散りにならずに迫ってくる。

角川「短歌」4月号、「Place to be」28首(川野里子)も忘れがたい。この一連を読んで衝撃を受けて、『硝子の島』を買って読んだ。母の介護ということと、しかし自分が生きるということの、狭間を揺れ続ける一冊であり、その延長に今回の一連がある。折々詞書として差し挟まれる台詞の妙。主題に絡めとられるようにして周囲の事物がうたわれている。

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11月6日(火)

「現代短歌」3月号、「秋のこと、冬のこと」24首(内山晶太)は連作として、というよりも一首一首の立ち現れ方に驚きながら読んだ。着眼の独特なところもさることながら、一首を韻律から際立たせたり、あるいは一首を、ひとつのことばの選択によって印象深くしたり、一首一首の立ち上げ方に特徴がある。(初読のときは、圧倒されて、直視できなかった。)

「短歌研究」4月号、特集は「不思議な歌の国・名古屋」。名古屋在住・ゆかりの十三名が連作を寄せていておもしろい。彦坂美喜子、島田修三、小島ゆかりなど、気になる作品はいくつもありつつ、いちばんは「光が丘に星降る午後を」15首(黒瀬珂瀾)とおもう。固有名詞のオンパレードでにぎやかなのもあるが、そのひとつひとつに気分がノっていて、「若かつたんや」「あたりかおぼろ」「さういふとこがアレやぞ」「これが魔界だ」と口調もさまざまで、お得感(?)のある連作だった。次々読んだ。

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11月7日(水)

角川「短歌」8月号、「碍子」28首(小池光)は1首目から意表をついてくる連作で、小池作品のさまざまな面を見ることのできる一連であった。結句で一首をひっくりかえす方法あり、固有名詞を効かせる方法あり、またリフレインの妙あり、と飽きずに最後まで読み通すことができる。そして最後の1首が「碍子」のうたなのだが、結句がぴた、っと極まっていて圧倒された。連作とタイトル、ということを考える。

ことし「短歌研究」は「平成じぶん歌」という特集を立て続けに組んでいて、これがどの号を読んでもたのしく、ここに挙げるとキリがない。「名古屋」の特集にしても、「東京」の特集にしても、作品がずらっと並んで、それがたのしい、というのは「短歌研究」の(今年の)特徴ではないだろうか。さて、「短歌研究」8月号は、作品連載から「富士の見えるあたり」30首(松村正直)をここに記しておく。連作のうしろから二首目にあるように、まさに「母と次男が旅する話」である。〈かたち良き富士をふたりで見ていたり松の林を鳶が越えゆく〉〈娘なら一緒に入る温泉をわかれてひとりひとりの時間〉など。ひとつの連作において、徹底してひとつのテーマに取り組む、ということの多い作者とおもう。それゆえの、ねばりづよく描写をかさねてゆく構成が、本作でも活きている。

「現代短歌」8月号、「解答はじめ。」7首(屋良健一郎)には、うっ、と立ち止まってしまった。二者択一の、テスト形式の7首であるのだが、どの問題をとっても、立場によってはいずれもが正解になり得る、そのことを突きつけられた。だからこの一連は、連作形式の新しさ(もっといえば、テーマとの合致)のみならず、ここに描かれていることの複雑さが印象にのこっている。

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11月8日(木)

「現代短歌」の二人五十首は、どの二人が、どんな五十首を用意するかで、同じ形式のようでいくらも違ったものになっている。もっとも鮮烈で、なおかつ、この形式が活きたのは、奥村晃作と工藤玲音の二人五十首ではなかったか。場の力と一体となって連作が迫力を帯びていたし、この形があったからこそ生まれたうたもあったのではないか、と思わせるような作品がいくつもあった。さて、「現代短歌」4月号、「クリームパンと担々麺」50首(鯨井可菜子、田村元)は、それとはまた違った種類の、二人五十首ならではの作品であったとおもう。奥村・工藤ペアのときの緊張感とはちがう、ラリーのおもしろさがある。各々が、それぞれにうたを作るのだけれど、どこかで重なりあったり、ときにはっきりと絡みあったりしながら、ひとつ生活が浮かんでくる。

「短歌研究」7月号、「平成じぶん歌」は、「まだ旅の途中」30首(田中槐)にひかれた。これも生活のうたと言えばそうで、しかし人ひとりの三十年というのは(それはどの「平成じぶん歌」を読んでも思うことだが)実にいろいろのことが起こるのだなあ、と平凡な感想だがそうおもう。どの三十年、が切り取られるかによっておのずと味わいも変わってくる。田中作品の場合、およそ三十歳から六十歳というところか。仕事があって育児があって、短歌結社に入って、俳句結社にも入って、引越しをして。固有名詞的一連である。そしてその時々の、ノリや気分が、まっすぐに出ていて、末尾の一首には、それら連作全体への眼差しがこもっている。

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11月9日(金)

「短歌研究」6月号、連載は、「三月生まれ」30首(池田はるみ)が印象に残った。池田さんの「ばあば」詠というのか、孫をうたって独特の目線と口調が池田作品にはある。この連載でも、折々、「ばあば」が登場してきた。

「歌壇」9月号、「ぜんぶがちがふ」20首(渡辺松男)は渡辺松男がうたいつづけているテーマのひとつ大きなものが、直にあらわれている作品だ。〈ぜんぶちがふやうな気がするからだのぼくとぼくのからだとからだとぼくと〉〈ねむりたい、夏掛けぶとんいちまいが鉛以上に重たいけれど〉など。「退部」12首(千葉聡)も、千葉作品の王道というか、まっすぐ千葉聡なのだが、そのまっすぐが、力強くおしてくる連作である。〈男子部員三人が俺を呼びとめて「部をやめます」とそれだけを言う〉、この「三人」というのがおだやかでないなあ。タイトルが「退部」であるから、少し予感しながら連作を読み進めるのだが、こういう形で退部がくると、想像以上でおどろいてしまう。これが5首目で、そこから一気に12首目まで進む。内面を抉り出すことと、そしてそれを(ときに美しすぎるほどの)情景へかえすこと。千葉作品のひとつの特徴であるが、それが充実した、一連12首である。

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11月10日(土)

石井僚一は、第1歌集以後もかわらず、さまざまなスタイルのうた・連作を発表している。その振れ幅におどろきもするのだが、その取り組みはどこかアイロニーを含んでいて考えさせられる。「現代短歌」5月号、「自死と不死の等しき部屋」13首(石井僚一)は文語旧かなということに意識的な作品だ。〈薄鼠に空は湿りて木曜の競馬場には馬の哀しさ〉〈薄墨の雨に濡れたる魂を絞りて起伏なき床拭けり〉と、これはたぶんわたしの好みのうたを引いたのだとおもうが、そうではない語彙や世界観もこの連作にはあらわれていて、そのほかの石井作品と直結する部分が少なくない。たとえば、井辻朱美、睦月都、大塚寅彦、という歌人を思い浮かべてみる。さらに川野芽生、小佐野彈、寺山修司、黒瀬珂瀾、高島裕を引き寄せてみて、少しちがうな、という気になってくる。不思議と不気味のいりまじる一連だ。

おなじく「現代短歌」5月号から、「最後の醤油」7首(佐伯裕子)は特集「最後の晩餐」に寄せられた一連である。とりたてて豪華な食事ではない、むしろ、平常の、ささやかな食事の風景と、そこに滲む思い出と、眼差しとが印象的な作品だ。7首ぜんぶのうたが好きだった。「紫蘇の実かけて」7首(米川千嘉子)もまったく同様のおもいに読んだ。この特集のことはすっかり忘れていたのだが、とにかくたのしくおもしろく、また、それぞれの生(なま)の側面が出ていて、読み応えがある。

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11月11日(日)

引き続き「現代短歌」5月号、「ふるさとに喰ふ」7首(黒瀬珂瀾)は、〈ふるさと〉というものを問う一連で、そこに「最後」ということと「晩餐」ということが絡み合いながら7首が成っている。エッセイには「大阪に生まれはしたが、実家のあった町は町ごと巨大マンションとなり今や跡形もない。」とある。この一連、土地の食べものが多くうたわれているのも大きな特徴だ。

「九大短歌」第八号、「毛とニキビと」35首(菊竹胡乃美)は、5首目に〈おめでとうございます男の子ですよと言われたけど女の子だったよ〉という一首があって、つまり、「男の子」のはずなのに「女の子」としてうまれた、という視点で一連が統べられている。しかしこの一首の迫力というか、温度というか、すごいなあとおもう。まさにこの「女の子だったよ」というくらいの距離感で、現に「女の子」であるということを知らしめられるのだろう。〈水族館より遊園地より一時間五十円で卓球やりませんか〉〈サヨナラホームラン打とうねってお父さんお母さんに言われて泣いた〉など。一首が剥き出しで、ストレートにとどく。

「Sit in the sun」という個人誌から、「Sit in the sun」15首(阿波野巧也)がこころに残った。滑らかにことばが運ばれてくるような心地よさがある。真っ昼間のど迫力、という感じではなくて、淡いところ、まばゆいところが浮かんでくる。〈憂鬱はセブンイレブンにやって来てホットスナック買って食べます〉〈シャンプーを薄めて使い切るまでをがんばりながら過ぎる一月〉など。「買って食べます」「がんばりながら」にあらわれている気分が、ほとんど「素」のように思われて、だからこれも、ある種のストレートのように映る。

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11月13日(火)

「COCOON」Issue 09は、「やまねこ」24首(大松達知)「そこが海ではないとしても」24首(工藤玲音)に注目した。「やまねこ」は、登場人物の多い一連である。「ぼく」の一首から始まるのだが、「ぼく」ひとつとっても「あすのぼく」「ひとりのぼく」「われ」などいろいろな現れ方をするし、末尾の一首では「ぼくにまだぼくが残っているようだ」とうたう。「ぼく」というものを見つめながら、そこには家族が混じってくるし、またその他にも固有名詞で人物がうたわれている。

工藤玲音について、その「作風」を問われると、わたしはまだ、これ、という形で即答することができずにいるのだが、この一連ではその、これ、が少し見えるような気がする。それでもまだ漠としたものだが。一連は、「きみ」と「わたし」の24首である。景色はなんとなく静かで、二人の輪郭も淡い。〈混ぜながらどの感情か見失う夏の大きなフルーツポンチ〉〈まっすぐに歩ける蟹のものまねできみがこちらへまっすぐに来る〉〈溺れているそこが海ではないとしても銀のあぶくの息継ぎをせよ〉など。もっと威勢というか迫力のあるうた、元気ではちゃめちゃなうたを記憶していたのだけれど、これらのうたは、それとはちがう。もっと読みたいなあ、とおもう。

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11月15日(木)

角川「短歌」9月号、「よじのぼれそう」12首(斉藤斎藤)は、一連のストーリーを、臨場感をもって読んだ。ストーリーと言っても12首なので、大きな起承転結があるわけでない。ちょっとぶらっとしてきた、くらいの長さなのだが、実況中継を見ているような、いや、もっと、視線を共有するような読後感がある。視点のおもしろさではなく、述べ表し方によって視線の共有を可能にしているところに、文体の特徴があるのではないだろうか。おなじく角川「短歌」9月号、「甑島」12首(染野太朗)も、措辞の特徴のよくあらわれた連作とおもう。「甑島(こしきしま)」へ渡って夜まで、のこちらも短いストーリーだ。何事かが起こるわけではない。「風まみれ」「花粉によごれ」「さもしさ」「悪あがき」「ぐつとふんばる」「わらふほかなし」「きつと忘れず」ということばをひろうことができる。視線というより、こころの動きのほうを共有するかのような読後感がある。

12首という連作の長さのことを考える。

「歌壇」11月号、「義祖父の葬儀」12首(小島一記)も、同じ観点から印象に残った。義祖父の訃報から一連は始まり(この一首目に、小島作品の特徴がまずあらわれている)、そこから淡々と事が進んでいく。率直なうたが並ぶ。客観的とはどこかちがうのだけれど、感情をどんどん出していくスタイルではなく、色の濃い光景がつづく。汚れや汗や息遣いまで体感されるような、読後感がある。

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その2へつづく)

作品リスト(文章)2013~2018

【2018年】
心と律(『現代短歌』12月号、現代短歌社、2018.11)
……「もう一人の師」というコラムに、やまなみのことを書きました。
一首の容量(『梧葉』VoL.59(秋号)、2018.10)
……「今、もっとも関心をもっている歌人」というお題で、長谷川銀作について書きました。
牧水と並んで歩く(『現代短歌』10月号、現代短歌社)
……特集「牧水考」にエッセイを寄稿しています。牧水作品とどう出会い、どう読んできたか、などなどお題にそって書きました。
挽歌と短歌(『現代短歌新聞』9月号、現代短歌社)
……歌壇時評6回目(最終回)。寺井龍哉の論考「誰か生死を思わざる」(「短歌研究」8月号)を読みました。江戸雪、馬場あき子、小池光の挽歌を引いています。
更新のレトリック(『現代短歌新聞』8月号、現代短歌社)
……歌壇時評5回目。田口綾子『かざぐるま』を読みながら、短歌同人誌「ひとまる」、「短歌研究」7月号に触れて、リフレインについて考えました。
昼の食・うなぎ(『うた新聞』7月号、いりの舎)
……「ライムライト」のコーナー。小池光を通じて斎藤茂吉にアクセスすることができるようになった話です。
〈振り向く〉考(『現代短歌新聞』7月号、現代短歌社)
……歌壇時評4回目。生沼義朗「再興の歌」、「短歌研究」の特集「平成じぶん歌」、穂村弘『水中翼船炎上中』をとりあげて、〈振り向く〉という方法について考えました。
一首の居所(『現代短歌新聞』6月号、現代短歌社)
……歌壇時評3回目。ユキノ進『冒険者たち』の2首をきっかけに、「一首の居る(べき)ところ」について考えました。
連作の緊張(『現代短歌新聞』5月号、現代短歌社)
……歌壇時評2回目。角川「短歌」の巻頭作品(28首)から渡辺松男、大島史洋、川野里子の連作を読みました。
「歌人」は歌人か?(『現代短歌新聞』4月号、現代短歌社)
……歌壇時評1回目。「歌人」をはじめとする名乗りや誌名についての話題を出しました。

【2017年】
渡辺松男の壺(『tanqua franca』、2017.11)
……企画同人誌『tanqua franca』に参加しました。『雨る』をたよりに書いた渡辺松男論です。渡辺松男さんとは共作『腸内環境』にも取り組んでいます。
玉入れと「数」(『みづもと』、2017.11)
……歌人による短歌じゃないライフスタイルマガジン「みづもと」で連載コラム「教えて やました先生」を担当することになりました。数学のコラムです。
五日間、八〇〇首への旅(『西日本新聞』朝刊2017.10.21)
……文化面の「随筆喫茶」欄にキャラバンのことを書きました。
暗がりから外を見る時(『現代短歌』4月号、現代短歌社)
……第一歌集ノオト(書評)に関野裕之歌集『石榴を食らえ』評を書きました。

【2016年】
バネとしての〈の〉(『やまなみ』2月号)
……阿波野巧也および『京大短歌』を中心に、助詞の〈の〉について書きました。

【2013年】
「の」の連続にみる一首のもつ世界(『現代短歌新聞』4月号、現代短歌社)
……助詞の「の」を連ねる歌をいくつか挙げて、その方法について考えました。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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