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大森静佳『てのひらを燃やす』(2013年)

ちょっと触発されて書きます。

     *

いまあらためてこの歌集を読んだときに、もっとも強く迫ってくるのは次の一首だった。

白い器に声を満たして飛ぶものをいつでも遠くから鳥と呼ぶ

大雑把に言えば、〈鳥=白い器に声を満たして飛ぶもの〉という見立てのうたである。鳥、というもののどこをとりあげてデフォルメするか、というときに、ここでは「声」が選ばれている。そうか、鳥は声なんだなあ、と思う。

白い器、というのは白い体(たい)のことだろう。その体が、飛びながら揺れながら、声をもらしている。白い器いっぱいに、泉のように声が生まれてくる。それが時折、あふれてきて耳にとどく。これだけでも、いくらも魅力的だ。

しかしこのうたの、見逃してはならないのは「いつでも」「遠くから」だ。

それ(=鳥)を鳥と呼びかたらうものへの、きびしい視線がある。きびしい、というのは単に批判だけをさすのではない。深く内省することばでもある。そのこと自体をじっと見つめる視線だ。「いつでも」呼ぶ、「遠くから」呼ぶ、「いつでも遠くから」呼ぶ。呼ぶのがためらわれるような思いにいたる。

この、「いつでも」「遠くから」のような過剰は、大森作品のひとつの特徴である。その過剰が、ある迫力のようなものを発生させる。こちらが一瞬怯んでしまう。立ち止まる。「いつでも」「遠くから」のような〈声〉は、ときにおそろしく、同時に寂しげでもあって、どこかで、素手で渡さないといけないおもいを伝えてくる。

再び一首に戻る。字余りで流れるようにうたいだされた一首は、結句にかけて句またがりをしつつ、七・七を守る。このギャップというのかなあ、そういう音読したときのぞわっとする感じもある一首であった。

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光りつつ死ぬということひけらかし水族館に魚群が光る
とどまっていたかっただけ風の日の君の視界に身じろぎもせず

一首目の「ひけらかし」は「見せびらかす」ということ。別に見せびらかしているんじゃないだろう、と、なぜか魚の気持ち(?)になって反論したくなる。きっと「死ぬ」ということを、おちょくっているみたいに受け取ったからだろう。だからこそ、この「ひけらかし」は選ばれていると思う。

しかしこのうたは、ただ「死ぬ」ことそのものをうたっているわけではない。ひけらかしているのは、「光りつつ死ぬ」ということ、だ。たとえば人は、光りつつは死なない。「光りつつ死ぬ」ということの特別をおもう。魚のあの光り方、というのはただの模様のようであるけれど、水中から見たときの水面の光り方によく似ている。それは魚の意思とまではいかないだろうが、魚というもののあり方が、魚を光らせる、とは言えるかもしれない。結句の「光る」は、一首を経由することによって、さらに複雑な色味をおびる。

二首目の「とどまっていたかっただけ」も唐突だが、それをさらに補強するように結句に「身じろぎもせず」が置かれる。こういう圧力みたいなものに、どうしていいのかわからなくなる。

合歓の辺に声を殺して泣いたこと 殺しても戻ってくるから声は
奪ってもせいぜい言葉 心臓のようなあかるいオカリナを抱く

それぞれ「殺しても戻ってくるから声は」「奪ってもせいぜい言葉」に立ち止まる。

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歌集のなかには「きみ」「あなた」を直接に、あるいは間接にうたったうたが少なくない。

晩年のあなたの冬に巻くようにあなたの首にマフラーを巻く
われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき

これから長く、一緒に暮らしていく人だろう。一首目、すでに「晩年」を思う(すでに、とこちらが言ってしまうのは変だけど)。いま、目の前のことが、いつか来るだろう「晩年」と重なってうつる。時間の帯がくるっとまかれて、いま、ここに交わるような、巡り合わせをおもう。二首目、これは二人の年齢の差だろうか。いま、目の前のこのひかりと、わたしにはなくてきみにはあった七つの冬の、そのそれぞれにあったひかりが、ここに交差する。

忘れていい、わたしが覚えているからと霙の空を傘で突きゆく
寂しいひとに仕立て上げたのはわたし 落ち葉のように置手紙あり

このテーマは、第二歌集『カミーユ』にも引き継がれている。とくに、「寂しいひとに仕立て上げたのはわたし」という視線が象徴的だ。その視線の向こうにはきみがいて、それを見るわたし、を見る眼差しが繰り返しうたわれる。「忘れていい、わたしが覚えているから」という寄り添い方は、しかし決して力強くなく、四方八方に力を張り巡らせていなければ耐えられないような何かに、怯えながら、それでもうたおうと声を出すような、内面が見えてくる。

     *

時間のうたを他にもいくつか引いて、おわりにする。

浴槽を磨いて今日がおとといやきのうのなかへ沈みゆくころ
手花火を終えてバケツの重さかなもうこんなにも時間が重い
透きとおる砂の時計を落ちてゆくあれが時間であるのかどうか

時間もまた、ひとつ大事なモチーフである。〈声〉と〈時間〉とが一冊のなかでぐちゃぐちゃにからまりあっていて、平衡感覚を失うような読後感がある。

冬の夜のジャングルジムに手をかける悦び 手には生涯がある
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす

いまという時間の一点に、生涯ということ、この世・あの世ということがかぶさってくる。「白い器に声を満たして」うたうひと——このひとの苦しさのようなものをおもう。



※歌の引用はすべて新版・歌集『てのひらを燃やす』(角川文化振興財団、2018年)に依ります。
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生田亜々子『戻れない旅』(2018年)

歌集は「生きているものだけに降る雨」という長めの連作から始まる。

本ばかり読む人だった今子らが灯りもつけず読む母の本
乳房まで湯に浸かりおり信じたいから測らない水深がある
思いにも骨子があって取り返しのつかない場所が夜に光るよ

母とわたしと、わたしの子らと、連綿とつづく〈家〉というもの、〈血筋〉ということのただなかに、一人立ち尽くしているような一連である。

一首目、二句切れのうたと読んだ。「本ばかり読む人だった」なあ、と、母のことを回想している。それで、たぶんわたしも「本ばかり読む」、さらにその子らも。「灯りもつけず」だから、本を読むということが習慣、習性のようなものになって引き継がれている。静かに濃いなあ、と思う。けれどもちょっと、置いてけぼり、というか、このわたしは妙に浮遊しているところがあって、〈家〉や〈血筋〉から一歩引いたところにいる。子の存在を、怖くも思っていそうだ。目の前のわが子、というよりは、〈子〉というもの、〈子〉が子であることを怖れるような……。

二首目の「信じたいから測らない」、三首目の「思いにも骨子があって」、あたりにインパクトがある。「信じたいから測る」のではなく、「測らない」。初句からいきなり「思いにも」の「も」が突きつけてくる勢いに圧される。

     *

このフレーズの力というか魅力というか、なんだろう、と生田作品を読むと思う。

毎日が戻れない旅 別々のホームから手を振り合って乗る
途中からハミングになる鼻歌のやさしいことが悲しいなんて

一首目は表題歌。「毎日が戻れない旅」と初二句でキメてくる。その心持ちを、ひらいていくように三句以下の景がある。だからといってなにか、劇的なことが起こるわけではない。ただそういうことがあって、そういう一瞬一瞬のひとつにふと、「毎日が戻れない旅」ということが浮き上がってくる。二首目は「鼻歌の」、と「の」で言い差して、ふっと「やさしいことが悲しいなんて」へ流れていく。鼻歌うたっていて、途中から歌詞が出てこなくなったのか、なんとなくハミングへ移行していったのか。どちらでもいいのだけれど、その一瞬が、下の句へつながっていく。

わかりやすい言葉にしたら伝わらない音にならない口笛を吹く
選ばれたことも選んだこともあり土鳩静かに鳴いている午後

一首目の上の句は、これまでのフレーズとは少しおもきが違う。わりあいふつうのことに近い(と思うのだが)。それを言ったら「やさしいことが悲しい」もふつうじゃないか、と言われそうで、確かにそのあたりの線引きは、受け取るほうの差異による。でもそこに「音にならない口笛」という質感がプラスされる。すーすー、と息がもれている形だ。ときおりピューッと音が鳴ったかもしれない。そういうディテールが付加されて、そのうえで、「わかりやすい言葉にしたら伝わらない」ということを思い返す。そのことによって、なにか固有のものになっていく感じがある。二首目の上の句、言っていることは当然なのだが、「選ばれたこと」と「選んだこと」を並列させて言うところに、ひとつの形がある。そうすると下の句の景はわりあいあっさりしていて、一首目とはシーソーの傾きが反対になるような読後感がある。

     *

どこかであっけらかんとしていて、この平然からくるうたの力は、たとえば小島ゆかりのそれと比べてみることができるだろう。小島の平然は「きっぱり」という感じなのだが、生田の場合はそういう感じではない。

晩夏光 川からの風をTシャツの中に通せば体が笑う
さびしいと言えないように左手を右手でつかみやはりさびしい
舐めかけのチュッパチャプスをさし出して風向きを見る私はわかる
ままならぬことを抱えていることもうれしい 明日も玄米を炊く

一首目の「体が笑う」には無防備がある。二首目、三首目の行動と、そこからくる「やはりさびしい」や「私はわかる」の平然。四首目の「うれしい」「明日も玄米を炊く」。どこか普通ならざる感じがある。「きっぱり」でなければ何なのか、何だろうなあ。

たましいはいくつになった? 生きていくために朝晩顔を洗って

いやいや「たましい」って「わたし」と同じ年齢じゃないの。と思うけれども、いやそもそもたましいに年齢とかあるのか、とか、これは精神年齢のこと? とか、本当は当然のことではない「たましいの年齢」という概念をすっとばして、この問いがある。そしてそれは、普通ならざるのだが、あくまで普通のこととして差し出される。わたしにとっては普通なのだ。わたしであることも、わたしの在り方も。



※歌の引用はすべて歌集『戻れない旅』(現代短歌社、2018年)に依ります。

戸惑いがなびくとき——辻聡之『あしたの孵化』(2018年)

歌集のはじめに置かれた「カラーバリエーション」という連作が、1冊への自然な誘導になっている。職場のこと、家族のことが、そしてそれらを見つめる眼差しが、端的に示されている。

物語の歌集だと思う。語り手の視線はきびしい。

     *

屋上へゆく階段の仄暗さ言葉の針をひとつ折りつつ
野菜ジュース満ちて光れる朝々を渡れネクタイを白き帆として
責任感とは鉛の言葉ぼたぼたと空に撃ち落とされるよ椿

働く人である。職場というものがあって、そこにはひとつの〈関係〉というものがあって、それはもとよりそこにあったものもあれば、そこに自分が入ることによって生まれたものもある。〈関係〉のなかを、「それはそうだ」とか「それはちがうんじゃないか」とか、思いながら、生きていく。この歌集は、どちらかと言えば、「それはちがうんじゃないか」という視線で貫かれている。そういう、いわば「言葉の針」を、一首目では「折りつつ」、しかし二首目では朝、「ネクタイを白き帆として」歩みつつ、それでもやっぱり三首目のように、「ぼたぼた」と「撃ち落とされる」「責任感」という「鉛の言葉」を見つめる。ただ、「それはちがうんじゃないか」と異議申し立てをするにとどまらず、屋上という開放的な場所へ至るためにある階段の「仄暗さ」を見たり、言葉の「針」を自覚したり、野菜ジュースが「満ちて光」ること(そして、その人体、あるいは朝というもの、そしてそれが日々あること)を感じたり、ネクタイを「白き帆」と見立てたり、空なのに、「空に撃ち落とされる」と逆立ちしたり、「ぼたぼた」の感じを「椿」と取り結んだりする。うた、というのはそもそもそういうものなのかもしれないが、この歌集のほとんどどこをとっても、直截というところからは遠く、一首があるように思う。

     *

それは、何か外への異議申し立ての際に、かならずそこに自省があり、しかしそのことによってひとつも弱くならない異議申し立てであるから、なのだろうか。

麒麟 わが日常にべこべこのアルミ缶より駆け出せぬもの
置き去りにされたるままに生きて来し少年の顔で眺むる熱海

先に職場のことを言ったが、この、ひとりの人が生きていくとき、ひとつには家族があり、またそこには当然のごとく自分自身があり、「駆け出せぬもの」すなわち缶ビールの柄の「麒麟」に、あるいは「少年の顔」になりきって眺めるその「顔」に、いまの自身が透けてうつる。

焼香の手順を観察しておりぬ悲しみ方は模倣されうる

結句の「うる」に、一首の独特がある。深い内省によって強化された主観が、さらに語り手という客観を通して提示される。強い、ごく個人的なひとつ感情が、この「うる」によって、ごく個人的なものをこえてくる。

     *

歌集を読みながら、歌集について書こう、と思うことは少ない。好きな歌、いいと思う歌、珍しい歌、おもしろい歌、修辞の魅力的な歌のことは目に入る。けれども、それらの歌について語ることを通じて、歌集について言い及ぶ、ということが、わたしの中では少ない。ほとんどない。けれどもこの歌集は、何か、歌集という総体があるようにうつった。

暗き樹がそばだてている耳いくつ わたしは低い声を出せない
借り物かもしれぬ体を温めるための湯船に膝を曲げおり

歌集なかばの「十四歳」という連作から。回想のうただろうか。何かこの人の、これまで読んできたのとはちがう、質感のことばが並ぶ。眼差し方は同じなのに、どこかぼんやりとしていて、しかも自省、内省の域を出ない。だから立ち止まる。「低い声が出せない」ではなく、「低い声を出せない」。出そうしているけれども、「出せない」のだ。

幼かりしわが声を知る父の耳わが壮年の声知らず閉ず
おにいさん、とバニラの匂う声で呼ぶ義妹のながいながい睫毛よ
弟の命名リストに点りおり星のごとくに愛とか美とか

戸惑い、なのかなあと思う。ここでは家族のうたを引いた。家族というものはそこに在って、あるいは新しく生まれていくものだが、その〈関係〉に否応もなく巻き込まれるものである。気づいたときには渦中にいた、ということがほとんどである。職場における〈関係〉も、確かに自分が選んだ場所ではあるけれど、しかし、その〈関係〉には予期せぬ動きがあり、見知らぬ働きがあり、気づいたら、その渦中でやり過ごすものになっている。「それはちがうんじゃないか」という異議申し立て、ではなくて、「それはちがうような気がするんだけど……」という戸惑いのようにもうつる。

ブルーシートとブルーシートの境界にふるさくらばな ひとりでもゆく
すこしずつ他人の家になりゆくをさびしきことと言い捨てて母は

戸惑い、というのはたとえば怒りとなって発露する。それがさびしさのこともある。二首目の「さびしき」と「言い捨てて」にはその両方がこもっている。たれもみな、戸惑う人なのだ。そう思うからこそ、一首目の「ひとりでもゆく」の決意は強い。

戸惑いが怒りになびいても、さびしさになびいても、かまわず「ひとりでもゆく」、なのだ。

     *

歌集はまだまだつづくが、ほかに印象的なうたをあげる。メタファーということに、真剣に取り組んでいる歌集でもあると、ここまで読んで気がついた。

ゆっくりと潜水しゆくウミガメのまぶたを水圧の手が閉ざす
実家から届いた茄子を腐らせるこれからも死んでゆくための旅
沈黙をチャイルドシートに座らせてわが弟は戻り来たりぬ



※歌の引用はすべて歌集『あしたの孵化』(短歌研究社、2018年)に依ります。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎『温泉』ご購入はこちらから。現代短歌社のオンラインショップです。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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