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4冊の歌集

いま、4冊の歌集を読んでいる。鷺沢朱理『ラプソディーとセレナーデ』、間瀬敬『エルベの石』、安井高志『サトゥルヌス菓子店』、橋本喜典『聖木立』。どの歌集もぺらぺらめくって直ちに読めるものではないので、結果として4つを並行して読む形になっている。

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鷺沢さんの歌集はすみずみにまで気が張っていて、おのずと慎重になる。名詞の歌がつづくというのもあって、ちょっとずつちょっとずつ読む。間瀬さんのは、1首が2行に折れるレイアウトが好み。そういう点ではすらすら読めそうなのだが、立ち止まることが多い。こういうとき、まず「あとがき」を読んでみる。安井さんのは、わたしの現実世界とはずいぶん違うところで歌世界が展開されていて、動悸しつつ読んでいる。誘われてる感じがある。橋本さんの歌が今のわたしにはもっとも親しい。親しい歌集ばかりではつまらないというのもあるが、他の本と一緒に読むとまた違った読みが出てくる。

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旅には牧水を持っていこうと思う。文庫でかさばらないし、牧水と一緒に旅をすると思うと心強い。台風が心配だ。
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キャラバン2018

今年も9月のはじめにキャラバンをやろうと思っています。
期間は9月2日(日)~9月9日(日)です。

キャラバンという名称は、その1回目にうまれたハッシュタグに由来しています。
1回目が2015年9月で、その後2017年3月、2017年9月とつづき、今回で4回目となります。

全国各地をめぐりながら歌の修行(?)をする行事です。
去年は5日で800首、というのをやりましたが、なかなか苦行でしたので、また別の形で各地をまわれたら、と考えています。
これから少しずつ計画を立てていきます。

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というところまで、6月2日に書いていたのですが、キャラバンのおおまかな動きが決まりましたので、追記します。
(さらに追記)詳細がだいぶかたまってきましたので、追記します(8/25)。

Day1 9/2(日) 仙台    :歌会
Day2 9/3(月) 伊勢崎   :歌会など
Day3 9/4(火) 東京    :歌話会
Day4 9/5(水) 東京    :歌会などorぶらぶら
Day5 9/6(木) 鎌倉・熱海 :ぶらぶら
Day6 9/7(金) 名古屋   :第8.5回辻歌会
Day7 9/8(土) 彦根・草津 :ぶらぶら
Day8 9/9(日) 大阪    :空き時間歌会 near 大阪文フリ

キャラバン終了後、キャラバン中の取り組みを「山下翔詠草集7」にまとめる予定です。

・頒価 1,500円
・部数 50部
・頁数 48ページ
・内容 各地での「15首連作+ミニエッセイ」を20セット収録(旅の記録付)
・装幀/組版 山階基

というふうに予定しています。

本田一弘『あらがね』(2018年)

帯に大きく「福島よ!」とあって、まずおどろいた。そこに「地(ぢ)の声の始源性を呼びもどし/ふたたびの安穏がやってくるまで/みちのくの骨太い詩魂が歌い継ぐ。」(/は改行を表す)と文が添えられている。背筋がのびる。

読んでみると、まさに帯文の感じで、「声」や「骨太い」や「詩魂」「歌い継ぐ」というのが、その通りに伝わってくる。歌集の始めから終わりまでが、そのトーンで貫かれている。『あらがね』というタイトルそのものであり、なにか揺るがない信条・信念のようなものが歌を動かさないようなところがあるのだ。一首が、石のような堅さや重さで立っている。

この読後感はこれまで経験がないな、とまず思った。そして、そのせいか、一方ではどこかで弱い部分や、動く部分や、透けてみえる部分を望むようなところが、読みながらあった。

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そういうわけで、この歌集の本線とはいくぶん違うところでぐっときたのが、歌集も終盤の「開運橋」という連作である。

旭橋、夕顔瀬橋、開運橋 北上川を掻きいだく橋

北上川は東北一の大河である。実際に地図をたどってみると、JR盛岡駅そばに開運橋がある。そのひとつ手前に旭橋、さらにもうひとつ手前に夕顔瀬橋がある。三つ並んだ橋なのだ。旭橋に立って、両サイドに夕顔瀬橋、開運橋を見ているような構図か。北上川の規模(長さ・大きさ)を思えば、この三つの橋を含む光景は全体のごく一部分のところである。その具体的な橋の名前を列挙するところからうたい起こされる。三つの橋のほかにもあまたの橋にいだかれて、北上川がある。盛岡駅周辺の北上川にかかる三つの橋——そこを起点にして、北上川の全体を、あるいはそこから東北の全体をも見るような歌だ。「搔きいだく」という動詞にも、その眼差しがあらわれている。

さて、連作の舞台は盛岡である。

歌を詠む少年たちを迎へたる北上川の水面光れり
みづからの歌のおもひをまつすぐに語る高校生のこゑ愛(は)

このあたりでおうおう、と事態がわかってくる。短歌甲子園だ(今年は明日かららしい)。各地から高校生が集まってくる。「迎へたる」「水面光れり」「こゑ愛し」などに気分があらわれている。ここでも帯文にあった「あらがね」感は確かにあるのだけれど、それありき、というのではなくて、それよりも目の前のことに反応している感じがある。あくまで「あらがね」感は背後にうっすら流れているのであって、ここでは、いまここの空間や感情が先行している感じを受けるのだ。いかにも現場、生、という感じがする。理屈の部分を経由せずに、目の前の対象に反応しているような。お、これまでとなんか違うぞ、となってくる。

もしわれが十七歳であつたなら二十分ではたうてい詠めじ

さらにもう一歩、高校生のほうへ踏み込んでいく。自分のこととして想像してみる。制限時間のなかで新作をつくるのだが、その「二十分」を自分ならどうか、と考えている。「たうてい詠めじ」は、謙遜というよりは羨望というふうに映る。憧れであるかもしれない。

それぞれに歌の持ち味引き出だす田中拓也の温(ぬく)ときことば
わんこそば食ふ少年ら少女らを目守(まも)れる小島ゆかりの笑顔

このあたりでいよいよ連作が膨らんでくる。田中拓也、小島ゆかり、の固有名詞が入ることによって、また、それぞれのキャラクターが描かれることによって、人物が動きだす。高校生の様子も見えてくる。会場全体の雰囲気が伝わってくる。

短歌甲子園終はればこの年の夏が終はるとゆかりさんいふ

ここが一番じんとくるところ。当然、連作の終わりも予感されてくる。

    「この橋を渡るときには目をつぶり願ひごとを唱へるといい」
八月のゆふべの開運橋を吹くしろたへの風よろこぶわれは

連作冒頭の「開運橋」にもどって、連作が閉じられる。ふたたびやってくる「われ」の時間。一首目の立ち姿とはちがった視線がある。どこかまだかたかった体が、一連を通してやわらかくなったような感じだ。ふっと息がもれるような安堵がある。そこにはおのずとさみしさも滲む。詞書が、「開運」ということに寄り添いながら、それが鼻につかないのは、一連の構成によるところも大きいだろう。

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8首からなる小品であるが、強く印象に残った。



※歌の引用はすべて歌集『あらがね』(ながらみ書房、2018年)に依ります。

ユキノ進『冒険者たち』(2018年)

ユキノ進の第1歌集である。さまざまな作品世界がつまった1冊だ。

貪るように生きていくのだ石塀のすき間に沿って茂る夏草
飛ぶ力を失いながら遠くなる水切りの石を見ればくるしい

とくに印象深い2首。くわしくは「現代短歌新聞」6月号の歌壇時評に書いたので、ここでは他のうたを読んでいきたい。

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午後ずっと猫がふざけて引きずった魚のまなこが見上げる世界

ユキノ進の代表歌だろう。初出のときからずいぶん話題になっている。「九大短歌」第四号にも、すこし書いた。一首のなかにくっきりと世界がある。そういう歌群の1つだ。一首においてもそうだが、ユキノ進は、連作にしても、歌集にしても〈作る〉歌人である。この歌集のなかにも、いくつもの〈世界〉があらわれる。読者はその〈世界〉を体験する。それは、『冒険者たち』というタイトルの「たち」が示唆しているところでもあるだろう。

待って待って、たて笛を姉は持ち出してつっかえながら吹くグリーングリーン
次はいつ帰ってくるのと聞く姉とだまって袖を握るおとうと
九階のベランダ越しの三人の影がおおきく手を振っている

単身赴任の一場面だ。もう時間なのだが、「待って待って」と父をつかまえる娘。学校の授業でやっているのだろう、練習して吹けるようになった「グリーングリーン」を披露する。父をひきとめる理由はなんでもいい。次、いつ会えるかはわからないのだ。そういうことを姉はできるけれど、おとうとは、姉の袖を握ってじっとしているしかできない。年齢の差がおのずと表れている。父と過ごした時間の差でもあるだろう。こまかな場面だ。帰る父の背を、見えなくなるまで見送るような「三人の影」である。夜、部屋の明かりが逆光となる。「影」の一語が、場面の印象を濃くする。

雪だるまは連れてけないな 雲(クラウド)に写真を乗せてふたりに送る

娘の「グリーングリーン」や、息子のまなざしに呼応するように、父も「雪だるま」を見せてあげたいと思う。連れて帰って(でも、表現としては「連れていく」になる。「帰る」ではないのだ)、一緒に遊びたいと思う。でも、当たり前だが、雪だるまは連れていけない。だから写真に撮って共有する。その手段がクラウドというのが、なるほどそういう使い方ができるなあ、と妙に納得する。雪の縁語の「雲」を表記しながら、クラウドへ転じていくところなど、こまかな采配にうれしくなる。

双眼鏡で三百円分見る景色 生きることまたいつか死ぬこと

100円玉を3枚入れて、決まった時間使える双眼鏡。展望所などによくあるものだろう。たしかに、「三百円分」である。そこにある景色は変わらずずっとあるのに、双眼鏡を使って見ることができる時間はいっときだ。〈世界〉はここにあるのだが、わたしが見ることによってはじめて《世界》として認識される。よこたわる〈世界〉と、生きて、そして死ぬこのわたしの《世界》との関係が浮かんでくる。グリーングリーンの歌詞に出てくる、「そして」を挟んだ体言のリフレインが、ここでの「また」を挟んだ体言のリフレインと重なってうつる。

     *

ほかにも、職場という〈世界〉がえがかれていて、歌集の中心的な話題となっている。あるところでは戯画化しながら、しかし投げられる球は重い。1首だけ引用しておわりにする。

人がひとを裁く疚しさ 意欲とか責任感まで評価するのか



※歌の引用はすべて歌集『冒険者たち』(書肆侃侃房、2018年)に依ります。

BLUE GIANT

おすすめしてもらった『BLUE GIANT』全10巻と、続編である『BLUE GIANT SUPREME』1〜5巻を読み終えた。夢中になって読んだ。まっすぐ行く、ということを思った。

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「連中のやってるのはジャズでしょうか?」
「ジャズっぽく聞こえる手グセの音楽、や…お遊びだね。」
「かじった程度の楽器の技術で、」
「グルグル回してダラダラ流す。」
「覚えた手グセから一歩も出ようとせずに適当(引用注:「適当」に傍点あり)を永遠に続ける。」

BLUE GIANTの5巻に出てくるセリフ。そのまま作歌にかえってくるようなことばが、ここだけでなく、あちこちにあった。うたは心と律——というのは師のことばだが、うたを始めて3年くらいの頃、心も律もなくて、それでもうたを作っていた時期があった。厳しく添削されていたのを思い出す。10首出して、○が1つ付けばいい方だった。

ふらふらしていたとき、うたへ向かう気持ちをかきたててくれたのは鯨井さんだった。野田先生と珂瀾さんは「まっすぐ行け」と諭してくれた。珂瀾さんには「勉強しろ」とも言われた。だんだん、うたに、熱中するようになった。それから技術(=律)のことに目が向くようになって、いろんな人の技術に手がとどかずにもがいていた頃、「そのままでいい」と言ってくれたのは染野さん。自分では気づかなかったうたのことを、いくつも教わった。

     *

なんだか思いがけず、うたを始めてからのあれこれを思い出している。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎『温泉』ご購入はこちらから。現代短歌社のオンラインショップです。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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