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浦部みどり『匂いむらさき』(2018年)

Ⅲ章からなる歌集である。そのⅠ章に表題歌がある。この表題歌に、一冊にこもった力がまずは率直にあらわれているように思う。内容の部分でもそうだし、あるいは修辞の部分でもそうである。表題と表題歌の関係としては、当然のようであって、しかし実際には稀有なことではないだろうか。そのあたりをたよりに読み進めた歌集だった。

老父母の保護者となりてゆくわれか匂いむらさきは花絶えず咲く

保護者であった父母が年老いていく。その父母に対して、次は自らが保護者となってつきあっていく。三句は「ゆくわれか」とあるので、そのような状況へ推移していく途上にあるのだろう。完全に保護者となってしまったのではなく、少しずつ、そうなっていくのだ。このときはまだ、その過程にある。下の句には、そのことへの矜持というか、覚悟というか、意を決するような立ち姿があらわれている。匂いむらさきは、というゆったりとした韻律・内容に対して、花・絶えず・咲く、という細切れの韻律・密な内容を接続させるところに、その姿をはっきり見ることができる。

そのほかⅠ章から4首引く。

朧月の白き黄昏さびしさを捨つべき海はめぐりにはなし
沈丁の花の匂いの漂いてゆき止まりなる路地が明るし
夏負けの五体を夜ごと横たえる布団の上に棒切れのごと
母の命保つ一匙と思いつつ唇の間(あい)より粥を入れおり

1首目の「めぐりにはなし」や2首目の「ゆき止まりなる」、3首目の「棒切れのごと」というふうに、一首のなかにひとつ捩れがある。一首が詠いおろされるときの、そのままの力のはたらきや、音の流れとはちがったものがひとつ入り込む。その捩りの力に引き止められるようにして、読者は歌を読んでいく。であるから、なかなか一首を離れられない。ふしぎな読後感と思う。

4首目は「入れおり」がなんとも切ない。歌になることばや、状況や、景色や韻律とはちがうところで、ある種の〈現実〉が横たわる。その〈現実〉が、手づかみで歌に放り込まれるようなところがあって、それが読者をながく立ち止まらせるのだと思う。

     *

つづいてⅡ章から。

父のいて母いて夫と娘いて春の宴の桜まぼろし

往時のにぎわいを「まぼろし」とうたう。誰もかれもがいて、元気で、にぎやかだった一時代である。そう読みたくなるような上の句のリフレインである。「父のいて」まではわりあい冷静なのだ。しかしここにあった助詞の「の」が抜けて、「母いて」「夫と娘いて」とつづいていくところで一首は動き出す。そのいきおいのまま、「春の宴の桜」とたかまっていく。それが最後、「まぼろし」である。この落差に動揺する。

夕風の吹けば偲ばゆ湯上がりの浴衣姿の母の襟元

「襟元」まで歌いこむ、歌のなかに巻き込んでいく、読者の視線を逸らさせないところが、一首に緊張感を生んでいると思う。Ⅰ章に〈母上にあまえて暮らす平穏の日々よ永かれ夜着の糊の香〉とあって、これも「糊の香」までうたうことによって力を得ている。「の」の連続の先に、読者の視線も合わさっていく。だから、「襟元」や「糊の香」が濃くとどく。

新盆の数だけ淋しき思いあり香をまといて帰り来たれり
麻酔より覚めてきびしき夫の貌見守るのみのひと夜のながさ

1首目は「淋しき思い」→「香をまといて」、2首目は「見守るのみ」→「ひと夜のながさ」という運びに、共通の歌の形がある。

     *

さいごにⅢ章から。

悲しみの夏はゆくとも悲しさは置いてゆくのか九月の窓に
もっともっと言えばよかった「ありがとう」もう届かない彼岸の貴方へ

143ページに2首並べて置かれた歌である。「悲しみの夏」という認識をたよりに、そこから「悲しさは置いてゆくのか」と踏み込んでいく。ある種のリフレインである。「悲しみ」と「悲しさ」はどちらも名詞であるけれど、その語のもつ微細なちがいが歌を通して伝わってくる。言語化されていない状態から言語化され分化されてゆく、その途上に、〈うた〉というものがあるのではないかと思う。肌感覚として共有できないことでも、〈うた〉があることで、そこへ手がとどく。共通認識のないところへアクセスできる。「九月の窓に」というささやかな結句が、そんなことを思わせた。「言えばよかったこと」「もう届かないこと」を残して、夏が過ぎてゆく。

柿の皮くるくる剝きて終りまで長く続けりひとりの真昼

山鳥の尾のしだり尾の式の序詞であろう。絶頂の一時代はとうの昔に過ぎ去って、「老父母の保護者となりてゆく」その先に、どこまでもどこまでも続く長い「ひとりの真昼」が横たわっている。「終り」への意識にはっとする。



*歌の引用はすべて歌集『匂いむらさき』(2018年、角川文化振興財団)に依ります。
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田口綾子『かざぐるま』(2018年)

読みはじめて、ややもどかしい気持ちで読み進めたのだが、しだいに楽しくなってきて、そのうちかなしくなってきて、それが交互に訪れながら、さいごは楽しく読み終わった歌集だった。田口綾子の第1歌集である。

     *

深皿を何度拭いてもとどまれる水滴、これは誰のさびしさ

一読「ある、ある」と思ったのだが(なんでそう思ったのだろう)、「何度拭いても」「水滴」がのこることなんてあるだろうか、と、いま立ち止まっている。洗ったあとの深皿を拭いているのだと思う。ほかのものを拭いていって最後に残った深皿だろう(この歌のひとつ前に、箸を洗う歌がある)。布巾もずいぶん湿っている。拭いても拭いても水滴をぬぐいきれない。これならば、「ある、ある」と頷ける。布巾をかえるか、ほどほどのところで伏せてかわかすかすればいい。

ただ、そうではないんじゃないか、とも思う。どうだろう。この人、泣いているんじゃないかなあ。それで、「これは誰のさびしさ」と問うている。なんで泣いているんだろう、と。泣いていることそのものを問う気持ちも、なんで泣くのが私なんだろうと思う気持ちも、両方あって、この水滴が拭いがたくある。この、ここにある、「これは誰のさびしさ」という眼差しは、この歌集全体を貫くひとつの鋭い視線である。

     *

正月と呼びえぬ年の初めにも駅伝はあり皆で眺めつ
洗はずに持ち帰る服ちちははの晩年に食ひこみすぎぬやう
それぞれの午後を過ごして常総学院(じやうそう)が勝ちさうなときは居間に集まる

実家の風景である。1首目は祖父の喪に際して。ひとつひとつの家の事情とはかかわりなく、正月はやってくる。正月が来れば、駅伝があり、特番があり、初売りがある。世間はなにひとつ変わらない。滞りなく、時間が進んでいく。それがいいことかそうでないか。「皆で眺めつ」は、その判断ではなく、光景を映す。時間を、関係を映す。3首目も同じような場面である。こちらは夏の甲子園か。「常総学院」に引き寄せられることへの、つまりは「ふるさと」とか「家」とかそういうものへの視線がある。このひとつ前が、2首目のうたである。「ただいま」と言って「おかへり」と迎えられる帰省であり、土地と自らとを完全には引き離しがたいのだが、それでも「食ひこみすぎぬやう」という意識がずっとある。

そして、次の歌。

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

この自棄は、「はいはい、わかったわかった」という自棄にはちがいなのだが、このあたりからユーモアの方へと舵を切ったような歌が目立ってくる。そこにはユーモアに転じるよりほかない悲しみがどうしても滲む。続く「ぐでたま」という連作もまた然りである。以降、かなしみとおかしみがどうしようもなく交互に押し寄せる。あっちからもこっちからもどんどん球が飛んでくるようで、大きく揺さぶられる。体勢をくずす。夢中になって読んだ。

     *

非常勤講師としての日々もまた、歌集のなかを流れる時間の一つである。国語の先生である。古典・古語にまつわるいろいろのエピソードがうたわれる。

「茨城」の漢字も書けぬど阿呆は寄るな触るなこつちに来るな

「今日の男子校」という一連から引いた。この去なし方は妙にリアルである。こういう距離のとり方、関わり方がどの歌からも伝わってくる。エピソードのひとつひとつが、(当然だが)単なるネタにとどまらない。おもしろいでは済ますことができない、現場の空気を湛えたものになっている。

択ぶとは 水にひらける半身を消たれつつなほ水上花火
旅先にふたりでひとつのトランクを引きゆくやうに君と暮らさむ

そしてきみとの暮らしが始まる。選択というのは常に、「何かを択ぶこと」と「何かを択ばないこと」とを同時に行うことである。択ばなかった何かが、水面の下にはある。見えるのは水面の上の花火だけであったとしても、だ。そういう選択のひとつひとつが、その都度あって、それが積み重なって、後から振り返ったときに一本の線のように映るかもしれない。でもそれは、決してはじめからあった線ではない。〈振り向く〉ことが線を見せるのだ。その歩みに、「ふたりでひとつのトランク」が加わった。

ひとつひとつの歌についても、連作についても、歌集の構成についても、まだまだ語るべきことばかりの歌集なのだが、まずはこのあたりまでにする。最後の連作「闇鍋記」は笑い転げながら読んだ。



*歌の引用はすべて歌集『かざぐるま』(2018年、短歌研究社)に依ります。

白水ま衣『月とバス』(2018年)

白水ま衣の1冊目の歌集である。123首が収められている。

一首のなかにうたいたい光景や、感情や、あるいは方法が、わりあいはっきりとあって、それをなるべくその形のままに一首を構成していこうとする——そんな作歌意識を感じた。うたが、ふと口を衝いて出た、という立ち姿をしていないのだ。むろんそれは一首の批評や鑑賞からどうこう言えることではない。が、まずはそういうことを思った。

     *

あらすじのようにさびしい 川上に向かって帰る夜の屋形船
清潔なロビーのようなこのひとの心に落とす夜のどんぐり

比喩の2首である。

1首目は、「川上に向かって帰る夜の屋形船」が「あらすじのようにさびしい」、というふうに倒置になっていると読んだ。直喩の歌だ。あらすじ、というのは物語の背骨であり、レールであり、もっと言えば型である。ふつう、物語はあらすじだけを提示されて味わうものではない。そこには肉がつき、物語を推進する描写があり、出来事があり、修辞がある。それらがあることによって、物語世界に入っていける。あらすじ以外の部分が、臨場感を駆動するのだ。だから、あらすじだけがそこにある場合、物語世界にはうまく入っていけない。その入っていけなさが、すなわち「さびしい」のだろう。あとは帰るだけの「屋形船」である。そこに乗った人も、あった時間も、流れた風も、においも、ふりおとして、あらすじだけが静かに帰っていく。

ところがこの歌をもう一度読んでみると、「あらすじのようさびしい」なのであって、「あらすじのようさびしい」ではない。私がさびしい、ということではないのだ。あらすじの側のさびしさを言っている。完璧な佇まいが、そこに入ってくるものを拒むことがある。あらすじは、ただそこにあるだけなのであって、そこには誰も入ってこれない。そのさびしさだろうか。それでもおのずと、私がさびしいということも重なってくる。

2首目の比喩は二箇所ある。「清潔なロビーのようなこのひと」の直喩と、「心に落とす夜のどんぐり」の隠喩だ。この「清潔なロビー」もまた、何か人を寄せ付けないようなところがある。ロビーであるから、本来は人が行き交うところだ。しかしどこかで許していないところがあって、そこに入れるものと、そうでないものとを選別しているようだ。「このひと」に私は近づきたい。踏み込みたい。その意思表示だろうか、どんぐりを心に落としてみる。「どんぐり」というチョイスが、「このひと」の「清潔」に対する私の態度である。「夜のどんぐり」の「夜の」も見逃せない。

歌集のなかには、ほかにも「〜として」という形の比喩も点在する。その比喩を読みほどいていくことも、この歌集のひとつの読み方なのかもしれない。

     *

一方で、先に挙げた2首にうたわれているような、ある種の「近寄りがたさ」は、私の側にもある。

わかりにくいことは罪だと言うひとの首輪にでかい鈴を付けたい

首輪にでかい鈴をつけることによって、それはよく目立つし、きっと音もわかりやすく鳴るだろう。「そんなにわかりにくいことが罪だとまでおっしゃるんでしたら、あなたもわかりやすくなるように、特別大きな鈴を付けてさしあげましょう」と言われているような気分だ。何だかこの迫力はこわいなあと思う。「大きな鈴」ではヌルいんであって、やっぱり「でかい」なのだけれど。それにしても、と思う。それに、あらかじめ「首輪」は付いているのだ。迂闊には近寄れない。こういう凄みのある歌が、これも歌集のなかには時折差し挟まれる。〈我が子、ではなく我が弁当膝に乗す 弁当なれば冷たくてもよし〉や〈詩は私信ではない。ならばもう少しそのファスナーのにおい、かがせて〉といった歌にひやっとする。

そうかと思えば、こんな一首に出会う。

歩くことでかるくなりゆく夏のわがこころにちいさな鈴を入れたし

私の鈴の音は、どこに向けて鳴るのだろうか。鳴らしたいのだろうか。

     *

歌を1首ずつ読んでいくたのしさは確かにありつつ、しかし一発で好きになったのは、次のような歌である。

UFOが見えそうな気がして黙す 芙蓉のひらく夕の川辺に
答えは風の中になくても 川沿いを少しほつれた髪のまま行く
紙飛行機はいちまいの紙に戻るだろう このしずけさが恋であるなら

きみの領域(あるいは、あなたの領域)と、私の領域が、知らず知らずのうちに重なり合っているような、そんな偶然のような時間が、場所が、ひっそりと隠れている歌集である。



*歌の引用はすべて歌集『月とバス』(2018年、私家版)に依ります。

日帰り

日曜日は熊本歌会(仮)に参加した。はじめての日帰り。夜の高速道路はいいなあと思った。

     *

歌会は15時から。参加者は8名。熊仮だと過去最高(か、それに近いくらい)じゃないかなあと思う。それぞれ飲みものや食べものを注文して、それを待つあいだに選歌。題詠「オノマトペ」で1人2首ずつ、合計16首の詠草が集まった。壮観。

前回に引き続き飲み放題をたのむ。はじめに生ビールを一杯。あとはずっとジントニックだった。題詠の「題」をどんなものにするかによって集まる歌もずいぶん変わる。奇抜な「題」が思わぬ歌をうむこともあれば、題がおもしろいだけで歌はいまいち、ということもよくある(そういうときには自由詠にいい歌が集まったりもする)。題詠の「題」の難しさである。そのあたりも楽しみながら、毎月の題詠が続いている。

     *

途中休憩をはさみつつ3時間ほどか。歌会のあとは宴会へ移る。外はまだ陽射しが強い。大通りを渡って反対側のアーケードへ。少し行ったところにいつもの居酒屋がある。くまモンのパネルがあったので写真を撮る。前回来たときにはなかったような。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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