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初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(2018年)

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く

水族館のイルカショーをふたりで見ている。背景に音楽がかかっているかもしれない。水の音が残っているだろうか。歓声もあるだろう。それなのに、イルカがとぶ/イルカがおちる、はその映像だけを伝えてくる。無音だ。その一瞬、「きみ」は何か言われたと思って振り向く。ことの順序で言えば、「ん?」と振り向く→何も言ってないのに、となるはずだから、イルカがとぶ/イルカがおちる、とはちがった述べ方をしている。きみが「ん?」と振り向いたことによって静寂がやぶられる。ふたたび無数の音にとりかこまれる。

     *

初谷むいさんのことはまずツイッターで知って、それからいろんな人がつぶやいている歌をさかのぼって読んでいって、その中に冒頭の一首もあったんじゃないかな、と思う。一首で読者のまえにあらわれたときの存在感が際立っていた。いま歌集のなかにそれらの歌とともに様々なほかの歌とがあって、そうしたときにはまたちがった歌に惹かれるようだった。

電話中につめを切ってる 届くかな 届け わたしのつめを切る音

この歌においても、わたし/きみはたしかに隔てられていて、しかし今度はわたしのほうからきみに向かっていっている。電話中につめを切ってる、という状況がまずある。「届くかな」というのは唐突だけれど、それは「ん?」のような、何か世界を動かすような、そこに音をつけたすような装置になっている。「届くかな」と思うことによって、届く/届かないという軸が世界に加えられ、空間は構造をもち、色彩がうまれ、そのことによって「届け」という思いがあらわになる。

「わたしのつめを切る音」はかすかなものである。それも電話越しに。きみは「ん?」と振り向くだろうか。振り向いてほしいのだ。

果汁一パーセントでもゆずれもん あなたひとりでこの世のかたち

果汁一パーセントであってもそのことによってゆずれもんたり得るように、あなた、たったひとりであっても、そのことによってこの世界がわたしにとっての世界たり得る。それくらい、あなたの存在はなにか決定的なのである。あるいは、あなたの存在が物質的にはどれだけ希薄であろうと、感覚の部分ではそんなの関係なく、それだけで立っていられる世界なのかもしれない。

何気ないエピソードにこころおどったり、誰にも気づかれなくてもきみにだけは届いてほしいと願ったり、もうあなたがいるだけで世界の見え方(=この世のかたち)が変わってしまったりする。ひりひりするような隔たりと交わりがある。

氷水から氷を出してあなたはぼくの水も氷水にしてくれた

交わりと言えば、たとえばこの一首。あなた/ぼくは氷水/水であった。その氷をきみがくれて氷水/氷水になる。冒頭の一首のように、ごく日常的な場面(たとえばご飯を食べにいって、あなたはお冷やの氷を指でつまんで取って、ぼくのグラスにいれてくれる)を思い浮かべて読んだけれど、あなたがぼくのほうへ入ってくることによってぼくがあなたに成り得るかのような幻想、あるいは水を氷水にしてしまうような暴力がここにはあって、一首はあるメタファーとしても機能しているように思う。

立っていて 光の中に さかなかえるわにはとわんこぼく走ってく

先の一首は「光の中に立っていてね」という連作の冒頭の一首で、この「立っていて」のうたはその末尾の一首である。さかな、かえる、わに、はと、わんこ、ときて最後に「ぼく」である。こんどは「ぼく」が「あなた」の方へ走っていく。最後尾から。魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類が並べられ、そのいちばんうしろから(おそらく)人間である「ぼく」が行く。「あなた」の存在によって「ぼく」の世界は輪郭をもち、意味が発生し、その「あなた」へ交わっていこうとするこころとからだの動きが「ぼく」を「ぼく」として自覚させる。

     *

ぼく(わたし)/きみ(あなた)がどう関係しているか、ということよりも、どうそこにあるか、ということを見せてくれた歌集だった。もう3首引いて終わりにする。

自転車の座席がちょっと濡れていた ゆびで拭ってもう秋が来る
死後を見るようでうれしいおやすみとツイートしてからまだ起きている
暗い方がいいと言われて消す電気 星 よみかけの吉本ばなな

一首目、秋はかってにやってくるけれど、「ゆびで拭」うことで秋をおびきよせる。二首目、「おやすみ」とツイートした人は隣にいるのだろう。「おやすみ」とつぶやいたのでタイムラインのうえにおいては寝ているのだけれど、現実にはまだ起きている。なるほど死後とはそういうものかもしれない。「ぼく」だからできることだ。そのことがうれしい。三首目、「暗い方がいい」の段階ではなにが暗い方がいいのかわからない。それがだんだんはっきりしてくる。「ぼく(わたし)」がいること、ただそれだけで、世界は世界なんだなあと思う。



*歌の引用はすべて歌集『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(書肆侃侃房、2018年)に依ります。

なみの亜子『「ロフ」と言うとき』(2017年)

著者4冊目の歌集。期間で言えば、2012年春からおおよそ2016年春までの作品が収められているとのことである。歌の数は413首と「あとがき」にある。少なくはない。導入部を抜けるまでがすこしきつかった。

しゅうまいをどこへやったと訊けば訊くほどに泣きじゃくるなり母さん
泣きたさが身体でわかる母むすめ午後いっぱいをしゅうまい探して

このあたりから、少しずつ歌集の世界へ入っていくことができた。「しゅうまい」というアイテムが唐突で、それが「母」には必然であり、しかし「むすめ」にはわけのわからないものである、というちぐはぐな感じに痛みを感じる。「あるべきものがない」もどかしさと、「あるはずのないものがある」もどかしさが、泣きたさへ至る。

どれくらいぶりかシャンプーしてやれば母より匂う雨の日の樹皮

生っぽいにおいだろうか。「雨の日の樹皮」が詩へ踏み込みすぎているきらいもあるが、「樹」ではなくて「樹皮」というところが、ぎりぎりリアリティをささえている。晴れの日、風の日、雨の日、くもりの日、雪の日、いろいろの匂いがあるのだろう。ほとんど匂いがしない日もあれば、強烈に匂う日もあるか。シャンプーするときの頭と顔の距離、樹皮を嗅ぐときの顔の近さも思われる。

じゃが芋のキムチスープに温もりておまえの料理はいい、と言う父
二人目のわが亭主さかなに米焼酎〈しろ〉を空けたり父と冬の夜

母との時間と同じくらい、父との時間もまた印象深い。「おまえの料理はいい」ということばにはいくつもの感情がいりまじる。「おまえ」という呼び方。「おまえの料理は」における「は」という限定。「いい」という評言(たとえば「うまい」ではなく)。「父」という体言止めが長くこのつぶやきを味わわせる。二首目は四句切れなのだが、「空けたり」という飲みきった、瓶(パック?)が空になった、という状況と切れがぴたり重なってしばし呆然とする。「父と冬の夜」という結句がその余韻を殺さず逃がさず引き締めている。

母を忘れ置き去る父を母さがしさがしに行った母を父さがす

混濁として切れ目ない日常である。境ないことの苦しさが抜け出せない韻律から滲んでくる。

     *

山に暮らす人である。暮らしの描写が、ひとつの生活の形を提示する。

なにものも渡らぬ鉄橋このようにさびしきものを渡す山合い

なにものも渡らない鉄橋というのは確かにさびしい感じがある。かつては往来があったのかもしれない。あるいは、ふだんほとんど使われておらず、時折必要とあって渡るひとがあるだけなのかもしれない。ひとつ山合いの風景である。結句では「さびしきものを渡す山合い」というふうに、風景は山へ返される。〈私〉を渡って「さびしきもの」は風景にもどっていく。「なにものも渡らぬ」と同じ「渡る」が結句でも「渡す」として使われているところも慎重に読みたいところだ。

春告げて春を越しゆく鶯は日ごと日ごとに鳴きを鍛えつ
小花もつ樹に近寄ればおんおんとおんおんと蜂の現場は沸きぬ
避けないで歩くわたしと犬二頭蜜とる蜂のいそがしければ

「鳴きを鍛えつ」「現場は沸きぬ」いずれも独特の表現と映る。魅力的である。「日ごと日ごとに」「おんおんとおんおんと」のリフレインが結句の硬質な表現へ道筋をつくっている。

絶望はむしろなつかしき手触りにわれをとらえよ山に鳴く鹿

     *

谷に水しゃがむを見たりかわいくてかわいそうだった母とうひとは
数ばかり数えていたり調子よく数える母の声に陽のさす
92でやめてもいいかと母の訊くまた数えだす23から

ふたたび母のうたを引いた。今度は数を数える母である。「しゅうまい」と対をなす、どこかおだやかな表情がうかんでくる。「声に陽のさす」というところからそう思うのかもしれない。「やめてもいいか」という質問はなにか哀しげであるが、「また数えだす」に不安は解消される。「23から」とあって、その安堵もまた束の間のものではあるのだが。

性欲は根こそぎ失せていたりけりこの夏ゆめによくものを食う

埋まらない欲望を、なにか別の欲望で埋めあわせる、ということがある。性欲のままならなさを食欲でうめるとか、行き場のない食欲が眠気をさそうとか。はっとして気づいたのである。すっかりなくなってしまった性欲に。哀しいか、安堵があるか、寂しいか、はれやかであるか。わからないけれども、「根こそぎ」であるから、そこには大きな喪失感があるだろう。「ゆめに」「よくものを食う」のは性欲が転じたのか。そのあたりの接続はほどほどに、並列の妙を味わった1首である。一冊の終盤にふさわしい、そして次の一冊への予感をおもわせる1首でもある。



*歌の引用はすべて歌集『「ロフ」と言うとき』(砂子屋書房、2017年)に依ります。

続・歌集続々

きのう、おとといくらいから風邪で弱っている。と言っても、熱はさほどでもなく、早めに病院に行ったのがよかったのか、これ以上ひどくはならなさそうである。長い休みの前になると体調をくずす、というのがもう何度か続いているのだが、どういうことだろう。気がゆるむのかもしれない。

     *

つい先日「歌集続々」ということで、近刊の歌集についていろいろ追いかけていたのだが、ひとつ大事な歌集を見落としていた。田口綾子さんの第一歌集である。タイトルは『かざぐるま』。「冬の火」で短歌研究新人賞をとってから10年とのこと。いまからすごく楽しみだ。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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