FC2ブログ

渡辺松男『〈空き部屋〉』(2007年)

人は電信柱のようにかなしいのに一本一本擦れ違いたり

人は電信柱のようにかなしい——という比喩を吟味する間もなく「のに」ときて、いったんはその比喩の言うところが何であるかを保留しつつ一息に読まされる。「ので」にも似たようなはたらきがあるだろうが、「のに」に比べればその力はひとつ下がるように思う。「ので」による誘導でいたる世界に比べれば、「のに」によって翻って映る世界のほうが新鮮で、なおかつ、対になる二つの世界を比較しながら〈人〉というものを見つめることができるからだろう。

電信柱というのは立っていて動かない。基本的には間隔をあけて立っている。それぞれが「電信柱」として括られながら、しかし一個一個の立っているところは違っていて、そこから見えるものも、そこで聞くものも違う。見た目には似たような電信柱である。しかし一個一個はおのずから固定され、その場を離れらない。〈私〉が〈私〉でありながら〈私〉を離れらないのと似ている。そして本来、電信柱は擦れ違い得ない。それな「のに」人は擦れ違う。

人は電信柱のように——ではない。電信柱のようにかなしい、の「かなしい」を読まなくてはならない。父の死をうたった連作「人は電信柱」の冒頭の歌である。「かなしい」の手触りを意識しながら以下の歌を読むことになる。

父よもっと生きてください薄く光る涎のようなことば曳きつつ
石を拾い持ち帰りたり苦労せし父の詰まりてできている石

母亡きのちのひとりの父を思って帰郷した渡辺松男——という作者の姿がうっすらと背後にありながら、その父までもが亡くなってしまったという「かなしみ」を思う。一本一本が擦れ違うことによって、なおさらに「かなしい」ということだろうか。あるいは別種の「かなしみ」にあうのだろう。

     *

父も母もたれもまさぬにひかり満ちせつなかりしよ いえ ただ 花野

この「に」も、先の一首の「のに」と似たようにはたらきながら、この一首ではさらに「いえ」ともうひと翻りする。父も母も、というリフレインはたんに父と母とを並列するにとどまらず、父と母とそれにつづくもの、それに類するもの、わたしにつながるあらゆるもの——たれも——が次々に失われていく「かなしみ」を思わせる。それなのに、ひかりが満ちている。胸がしめつけられる。苦しい。けれども「それなのに」と思うのは〈私〉であって、その〈私〉を引きはがしてみれば、そこにはただただ花野がひろがっているばかりである。「いえ ただ 花野」という空白はその引きはがす動作そのものを表しているようでもあり、また、無限に広がるかのごとくある花野の広がりをも表していよう。

「せつなかりしよ」の「しよ」と言えるまでの時間を思い、また、そこにうつる父や母や私を引きはがし、「いえ ただ 花野」と眼差しを向ける力とを思い、ふたたびみたび圧倒される。

秋の墓あかるくなりぬ機関銃の口もてさみしさみしと言えば

さみしの連射である。しかしそのことで、秋の墓があかるくなる。「機関銃の口もて」という直截にはユーモアがにじみ、歌としても「あかるくなりぬ」なのだが、あかるい「のに」読者としてはかなしい、さみしい、という気持ちが薄れなかった。

いっせいにさかなのように木がそよぐ静かだよここは神の瞳の中

木々のそよぎにわたしがいるこの風景を一気に「神の瞳の中」におさめてしまう腕力におどろく。「静かだよ」に声が籠る。

お別れのない愛はどこ目のなかを蝙蝠の飛びまわるせつなさ

「お別れ」はあるものである。たとえば父母との別れである。だからこそ「お別れのない愛はどこ」と希求する。この歌での「目のなか」は自らの目であろう。蝙蝠が飛びまわっているのを見ている、と読むこともできるが、直に、まさに目のなかを、蝙蝠が飛びまわると読むほうがいかにも自然な感じがする。「を」の強さ、「せつなさ」、渡辺松男の文体、を思えばのことである。

連作「落ちてこぬ妣」では〈妣〉を、「全裸」では〈木〉を、そのほか〈石〉を〈蜻蛉〉をうたい、渡辺松男らしい歌材と歌いぶりが詰まっている。

     *

歌集の後半から5首だけ引いておわりにする。

思いは増えたり減ったり秋の雲だからしっかりしていてメートル原器
おもわずあっこらえてもあっ雨ですわアヤメあやめてしまわれますあっ
〈わたし〉が散って他の〈わたし〉が咲き残る辛いけど花水木の並木
日のあたる〈空き部屋〉にあたたかき空気ありこの世に来ている自分の感じ
信じていいと聞きあいながら啄木鳥が木を叩く昼のあかるいなみだ

1首目、「しっかりしていて」という呼びかけ。2~4首目はそれぞれ一連のテーマであったり文体であったりにひとつコンセプトがあって、それを軸に連作が展開されるなかから1首ずつ引いた。「雨ですわ」の口調、差し挟まれる「あっ」、隠喩的にひびきながら「〈わたし〉」「〈空き部屋〉」を見つめていく。5首目、「信じていい」は問いかけである。木を叩く/昼の、の句割れでひとつ流れをかえて結句の「あかるいなみだ」。キキあいながらキツツキがキを叩く、と聞き合われる「信じていい?」「信じていい?」が「あかるいなみだ」に転じていく。



*歌の引用はすべて、歌集『〈空き部屋〉』(ながらみ書房、2007年)に依ります。

赤信号でいっしょになった

裏切り者、と書かれたシャツを着たひとと赤信号でいっしょになった
   「ビギナーズラック」阿波野巧也

赤信号でいっしょになる、とか、その状況を「赤信号でいっしょになる」と言うそのことを、今の今まですっかり忘れていた。「すっかり」なんて言うとさも以前はすごく意識をしていて、意識していたことさえ忘れてしまった、みたいにうつるけれど、でも以前だって少しも意識していなかったな、と思う。にもかかわらず、この歌を読んだときに湧き上がった気持ちは「知っている」だった。

     *

自分が何を思うかはことばによっている。そのことば、自分の使うことばは自分のなかで勝手に生まれてくるものではない。どんなことばを見聞きし、使い、使われるかによってその都度変わっていく。住んでいるところや、関わっている人や、読んでいるものや、コミニュケーションのやり方によって、知らず知らず変わっていく。ふだんは接することのないような人やむかし関わっていた人と久しぶりに話をしていて自分が(あるいは相手が)変わっていることに、はっと気づく。自分では変化がわからない。

いまわたしは「赤信号でいっしょになる」ということばを使わずに、「赤信号でいっしょになる」ということを意識せずにふだんの生活をおくっている、そのことを突きつけられた。なつかしさもさみしさもないけれど、「知っている」という気持ちになった。

     *

裏切り者、と書かれたシャツ。少し離れたところから見ている。歩いていて、関心はあるけれど、だからといって何かが起こるわけではない。こんなシャツがあるのか、とか、どんな人なんだろうか、とか思うことはできる。思ったかもしれない。声はかけないだろう。
——このシャツどこで買えますか
——裏切り者なんですか
とか。あるいはもう二度と見ることもない人だろう。また別のときに裏切り者、と書かれたシャツを見て、あ、前にもそんなことあったな、と思い出すかもしれない。そのときはもう忘れているかもしれない。あ、あの人、とまさに今見ているこの背中とこの風景とこの今の自分のことを状況を感情を思い出すかもしれない。思い出さないかもしれない。裏切り者、と書かれたシャツにはもう、気づかないかもしれない。

     *

裏切り者、と書かれたシャツの、それは背中に書かれているだろうことも、だからわたしがその人の後ろを歩いているだろうことも、歩いていることも、すべて「赤信号でいっしょになった」が引き連れてくる。「赤信号でいっしょになる」ということばも、概念もすっかり忘れていたのに、こう言われると、「知っている」という気持ちになる。風景がひとつに、少なくとも「知っている」と思ってしまったわたしのなかではひとつに定まる。

     *

赤信号でいっしょになって、そののちどうなったかはわからない。「いっしょになった」という気分だけがいつまでも残っている。



*歌の引用は、『SIT IN THE SUN』(阿波野巧也、2018年)に依ります。

時評について考えた日

時評をどう書いたものかと思っていろいろ見てまわっている。ネット上だと、「塔」「未来」「かりん」の時評が読めるようだ。

・塔:短歌時評
花山周子さんのあとを、いま濱松哲朗さんが書かれている。意見というか論点というかが明確で、それをすっきりと提示しているようにうつる。そのコンパクトな感じが文章にスリルのようなものを与えている。引用の手際良さというのか、スムーズにいろいろもってきたり要約したりしていて、文章を押し進めている。

・未来:時評
いま高島裕さんの文章が最新だ。そのまえは盛田志保子さんと服部真里子さんが交互に書いていらした。盛田さん、服部さんのを読んでいて思うのは、経験的考察、体験的考察とも言えるような箇所が少なからずあって、そのことによって何かに至ろうともしているし、また、読者を引き寄せてもいるなあということだ。

・かりん:時評
こちらは辻聡之さんが長いこと書かれている。(と思ったけれど、遡ってみると2017年5月号からだったので、この4月号でおしまいなのかもしれない。)歌のはなしが中心にありながらも、社会の状況をはじめとする様々な話題をからめてあって、しかもその接続がなめらかで、どういう塩梅なのだろうと思う。

     *

角川「短歌」の何年か前の大松達知さんの時評を読んでいる。率直、正直、丁寧と思う。意見と意見をかわすような健康な感じがある。情理を尽くして説明する、というのかなあ。決して過激というわけではないのだが、どきっとする場面もある。そういうところはひとつ文章の刺激となりながら読者を引っ張っていくのかもしれない。

     *

歌壇時評、作品時評、短歌時評、時評。それぞれちがいはあるのか、あるいは共通するところはあるのか。

     *

大井学さんは「歌をもとにして論じるのが、短歌の「時評」であり、「評論」だと思うので、一首も引いてない文章には常に態度を保留にします。具体的に何を言いたいのかわからないから。」とツイートしている。

また、加藤治郎さんは一連のツイートで時評について、

・その月に刊行された歌集・歌書・歌誌から優れた作品・評論は必ず取り上げる。取り上げた作品に共通した一つの視点を見つけ、そこから論じる。自分の狭い関心事で書かないことだ。
・月度の刊行物を読むという基本的な手順が欠落しているのではないか。
・時評は、直近の1ヶ月間の出来事について評するものです。まだ、だれも評価していないものを真っ先に書く行為です。
・まずは、読者を想定すること。新聞、総合誌、結社誌、同人誌、それぞれ書き方が違ってきます。短歌への理解度、年齢層など考慮すべきです。
・その月に刊行された歌集・歌書・歌誌から優れた作品・評論は必ず取り上げる。まず、これです。優れた作品は、必ず取り上げる。問題作でもよいです。つまり、主要な作品は、全て読む。これが第一歩です。

と言う。(引用にあたり、適宜、句読点を加えたり改行をのぞいたりしました。)

自分にどれだけできているだろうか、と省みながら読んだツイートだった。

     *

いま、総合誌としては「短歌研究」「短歌」「歌壇」「短歌往来」「現代短歌」の5誌を月々読んでいる。また、新聞では「現代短歌新聞」「うた新聞」の2紙を読んでいる。このほかにも「梧葉」はじめとする諸誌紙、結社誌、同人誌など様々な媒体があり、時評が載っている。毎月のように歌集・歌書が刊行され、ネットプリントが発行され、イベントがひらかれる。そのどれだけを追えるだろうか。追うべきなのだろうか。そこから何を掬い上げることができるだろうか。どんな視点を見いだせるだろうか。

     *

「塔」の座談会で、時評についての回があったことなども思い返した。

更新するレトリック

リフレインというのは、更新するレトリックと思う。

花電車見たくて見えず肩車してくれた父も叔父ももう亡し
ザリガニのにほひは夏の温水(ぬるみづ)のにほひなり素足素顔のころの
   小島ゆかり

『短歌研究』4月号は「名古屋」特集。掲出の2首は「ふるさとは名古屋です」という連作から引いた。1首目には、「見たくて見えず」「父も叔父も」、2首目には「ザリガニのにほひは夏の温水(ぬるみづ)のにほひ」「素足素顔」というリフレインがある。

リフレイン(畳句)というのが全く同じフレーズをくりかえす方法であるならば、ここでリフレインと呼ぶのは適切でない。しかしだからといって対句というわけでもないので、ひとまずリフレインと呼ぶことにする。

     *

1首目:「見たくて見えず」は、単に「見えず」と言うのとはちがった光景を呼びおこす。見たくて見ようとするけれど、でも見えない、というもどかしいような逸るような気持ちがあらわれている。何とはなく見えなかったのか、見ようとしたけれど見えなかったのか、そこのところに一歩突っ込んでいる。「見えず」を更新する「見たくて見えず」なのだ。

「父も叔父も」というのは事実そうなのだろうけれど、「父」だけでなく、その「父」につながるような存在としての、しかし「父」ほどの近さではないような「叔父」までもがこの世に亡いことが迫ってくる。「父」のみ、あるいは「叔父」のみであれば思い出話をなつかしむ歌になったかもしれない。しかし、「父も叔父も」とかさねることで、父や叔父のような〈存在〉の不在を思わせる。具体的な「父」「叔父」にとどまらず、それを包摂するような〈存在〉へ至っている。

さらに一首を読みくだすときには、「見たくて見えず」と「父も叔父も」ともリフレイン的にひびく。「見たくて見えず」の韻律や更新が、「父も叔父も」を導いているような気がするのだ。

2首目:「ザリガニのにほひ」を思い出す。思い出そうとすることによって、「温水のにほひ」に行き当たる。ここでも〈にほひ〉はひとつ更新される。下絵に色がかさねられるように、輪郭がくっきりとしてくる。「ザリガニのにほひ」という記憶は実際には「温水のにほひ」であったのだ……と説明的に言ってしまわない、「にほひ」をかさねることの効果を思う。

下の句の「素足」は、靴下や靴を履いていない状態の足を言うわけだが、「素顔」はそうではない。そうではない、というのは覆面や目出し帽をかぶってない状態の顔を言うわけではない、ということだ。「素足」に比べるともうひとつ抽象的な、一階うえのことばである。それが「素足」からの関連で浮かび上がってきている。ザリガニ→温水→素足は感触的な関連をもちながら、しかし「素顔」は「素足」からの字面・音の関連から浮かび上がってくる。ここに更新があると思うのだ。

     *

リフレインによって一首の世界が印象をかえながら浮かび上がってくる。思いもよらないところにたどりつく。そういう意味で「更新するレトリック」と思っている。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR