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石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』(2017年)

やさしいひとってなんなんだよ、って3分間考えてカップめんの蓋めくる

歌集では縦書きのこの短歌を頭から読んでいってこの「3分間」はすんなりと不思議だった。

「なんなんだよ」というのは憤りだが、「考え」ることによってそれは単なる憤りではなくなっていく。もっと別な憤りになることもあれば、ちがう感情をひきよせることもある。なぜ「3分間」なのか、なぜ単に憤るのではなく「考え」るのか。その答えは「カップめん」にあった。湯を入れて「3分間」、待つ間、「考え」るのだ。

何かをやるには短い、しかし、何もしないには長いこの「3分間」を、「やさしいひと」と言われたのか誰かが言っているのを聞いたのか読んだのか、この場合この「やさしいひと」という言い方にはある種の揶揄のようなものが含まれていて、かならずしも肯定ということではないだろう、そのなんだろうこの感じ、というのを「考え」ている。「蓋」を「めく」って食べ始めたら、「考え」ることも終わってしまって、「やさしいひと」のことも忘れてしまうかもしれない。そういう「3分間」だ。

少なくともわたしは短歌を頭から(上から)読んでいっているはずで、例えば次の歌にも似たような体験をした。

さぼてんをしよう 僕はこのグラウンドから飛び立てるように大きく大きく両腕を広げて前傾するから 誰か

さぼてんに「する」がついているので、組体操の「さぼてん」だな、とわかる。2人1組でやる形だ。「しよう」というわけだから、その相手を想定する。「僕は」「飛び立てるように」というから「僕」が〈上〉なのだなあ、という予想は裏切られ、「大きく大きく両腕を広げて前傾するから」というところで、あ、「僕」は〈下〉なのか、とわかる。

そして一字空いて「誰か」。相手はいなかったのだ。

この引き延ばし引き延ばしすることでこちらに十分な想定・思い込みの時間を与え、裏切り、さらに裏切るこの構造は先の一首のさらに極まった形であるなあと思う。

     *

長いうたがあれば短いうたもある。

23:59のレシートを風と一緒に強く握った

「23:59」を視覚的に読む(認識する)と、音の数が足りないように思われる。しかし、しばらくすると

にじゅうさんじ/ごじゅうきゅうふんの/れしーとを/かぜといっしょに/つよくにぎった

というふうに、定型に寄せて読むこともできると気がついて、この場合の短さは一旦は文字数について、ということになる。

受け取ったレシートをふと見ると「23:59」とそれが発行された時間が表示されているのに目がとまる。これが「23:53」だと見逃していたかもしれない。「00:01」だとどうだろう。この歌にはなっていなかったかもしれない。そういう「23:59」である。ひとつには「今日」という一日が強く意識される。同時に「明日」ということを思う。

両腕を横に広げて直径167cmです。

先の歌を経験しているので、これも

りょううでを/よこにひろげて/ちょっけいひゃく/ろくじゅうなな/せんちめーとるです

というふうに読んでみようとする。少し不安がある。

りょううでを/よこにひろげて/     /ちょっけいひゃく/ろくじゅうななせんちです

ではどうか。これもちがう感じがある。「直径167cmです。」はバラバラにできない。

ところで「両腕を横に広げ」たときの長さが身長と等しいとかそうでないとかいう話を聞いたことがある。この歌にもそういう意識があるのかもしれない。しかしそれでは「直径」が浮いてしまう。ダヴィンチの図にこういうのあったなあと思う。人体と円と正方形の関係が書かれてあった。

     *

手を振ればお別れだからめっちゃ振る 死ぬほど好きだから死なねえよ

表題歌、ということになるだろうか。「死なねーよ」ではなく「死なねえよ」とある。「お別れ」の「お」や「めっちゃ」は石井の歌のひとつの側面である。「のりもの」シリーズや近作でも帰省の歌に見られるうたい方だ。一方で「死ぬほど好きだから死なねえよ」のほうはと言うと少し低い音、重い感じにひびく。「ねえよ」と「ねーよ」の差だろうか。この一字空けの前後においては二つの異なる方法(というのか、石井のやり方)がある。

生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!

長く忘れない歌になると思う。あたたかい歌集だった。



※歌の引用はすべて歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』(短歌研究社、2017年)に依ります。
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第5回鳥ノ栖歌会

お待たせしました。日にちがせまっていますが、第5回鳥ノ栖歌会のお知らせです。

日時 2018年4月8日(日)13時〜17時
場所 サンメッセ鳥栖(JR鳥栖駅そばの歩道橋を渡ってすぐです。)
定員 15名
*前半は「tanqua franca」を読む会②③、後半は自由詠1首による歌会をおこないます。
読む会では「紀野恵×佐藤真美」と「穂村弘×寺井龍哉」を読みます。
*参加を希望される方は、前日までにtorinosu.utakai@gmail.com(@は半角)へ自由詠1首を添えてお申し込みください。
*「tanqua franca」をお持ちでない方でもご参加いただけますが、ご購入いただいた方が参加しやすいかとは思います。お気軽にご相談ください。

     *

〈「tanqua franca」を読む会の予定〉
1回につき、1つまたは2つのタッグを読んでいきたいと思います。
順番は以下のように予定しています。

① 盛田志保子×佐々木朔(2/27済)
② 紀野恵×佐藤真美(4/8予定)
③ 穂村弘×寺井龍哉(4/8予定)
④ 光森裕樹×濱田友郎
⑤ 水原紫苑×睦月都
⑥ 渡辺松男×山下翔
⑦ 阿木津英×山城周

文章の話でも、作品の話でもかまいません。
読んでみての感想や考えたことを少しずつ持ち寄って話せる場になればと思います。

岡井隆『鉄の蜜蜂』(2018年)

岡井隆のうたに感じるかっこよさ、というのはなんだろうなあと思う。この歌集の表紙(帯?)には「甘美なる挑戦状」とあるのだが、まず装丁からその気分が出ている。かっこよさ、というのは歌からあらわれる〈私〉のたたずまいのかっこよさなのだと思うが、しかしまた、かっこいいというのが適切でないような気もしている。

満月が来てるといふが見に行かず別便で着くマンゴを待つてる

「つきの光に花梨(くわりん)が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて」(『ネフスキイ』)という歌があって、うっすらかさなるところがある。満月が「出てる」ではなく「来てる」というところにひとつの把握があるが、これは「行かず」との対応もあってのことと思う。――ほう、満月が来てるんだって? ぼくは行かないよ――という感じで、満月との対峙には興味を示さず、別便で「着く」(これも「来てる」「行かず」と連携している)という「マンゴ」(マンゴーではない)に心はある。

満月とマンゴは似て非なるものである。満月の「満」にはそそられない、とでもいうような態度がうかがえる。こういう姿にあるいはかっこよさを感じるのかもしれない。どうだろうか。

傾いていくつてとてもいいことだ小川もやがて緋の激流へ
雲あつく眉のあひだに垂るるとき旧友の死にしばし黙禱

表現されるもののスケール、というのもあるだろうか。なにもなしに「傾いていくつてとてもいいことだ」といわれるとき、「傾く」ってどういうことだろうかと思う。たとえば政治的な態度を想像してもいい。下の句では「小川もやがて緋の激流へ」といくらか具体的に述べられるのだが、しかしこれもまた比喩のようにうつる。「緋」「激流」というのがそう思わせるのだろう。

「雲あつく眉のあひだに垂るる」という荘厳な光景がおのずから「黙禱」へつながっていく。重く、動かない気がある。(ちなみにこの歌からずいぶん離れたところに「雲あつく眉のあひだに垂るる間(ま)をもろともにあさの黙禱をせむ」という歌がある。)

     *

家中にいただきし花が咲きつづくわたしの過去が咲いてゐるんだ
過去と共に明日(あした)が一つづつ咲いて家内(いへぬち)を明るく照らして下さい

隠喩の魅力、ということかなあとも思う。「過去が咲いてゐる」というのは「過去にわたしの成したことに対して、方々より花が贈られてそれが咲いている」というふうに読んだけれど、もっと直接的に、まさに「過去」(そのもの)が咲いていると思おうとすることもできる。そのあたりが絶妙なのだろう。この歌をうけて2首目、視線は「明日」へ向いていく。「咲いてゐるんだ」「明るく照らして下さい」の口調というか文体というか、岡井隆だなあと思う。

稲妻のあと雷(いかづち)の来(こ)ぬやうなそんな批評もないではないが
濁流の中洲のやうな人生に水増しながら夏が来るんだ
ああ返辞は書いたよ幾つもいくつもね同じ文面を違ふこころで
どの人にも青春があつたにちがひないお似合ひのシャベルを摑んで掘つて
大岡さあん!「詩とはなにか」と問ひながらわれ鼻垂れてまだ書いてます
父の日のプレゼントにモンブランくれたればそのペンで書く「秋に会はうぜ」

1、4首目の批評の眼差し。2首目の立ち姿。3首目の下の句。5、6首目の態度と口調。ゆっくり読みたいと思う。

     *

最後に1首。

死にたいといふ声がまた遠くからきこえる午後を茶葉で洗ふ歯

「死にたい」は誰の声だろうか。「茶葉で」にしみじみと立ち止まった。



*歌の引用は歌集『鉄の蜜蜂』(角川文化振興財団、2018年)に依ります。

思うすなわち

そう思うことによってちがう見え方がうまれることがある。

疲弊していたれば歩くときに湧く浮力あり乱雑にわが浮く
   内山晶太
自分の力でお好み焼きを焼く朝の大切に思う自分のちから
   武田穂佳

それぞれ『現代短歌』『短歌研究』の3月号から引いた。1首目は「浮力あり」と思うことによって、それを前提にしてさらにもう一歩、「乱雑にわが浮く」という見え方がうまれている。2首目は「自分の力で」というのを意識しはじめることで、「自分のちから」という概念を得ている。

もう少しくわしく読んでみる。

2首目はお好み焼きを、店の人に焼いてもらうのではなくて「自分の力で」焼いている。そのときはまだ「自分のちから」というのは浮きあがってきていない。ところが「自分の力で」というのを意識することで、この「自分のちから」(ここでようやく概念になった)というのは大切だな、大切にしなくてはな、という気持ちがわいてくる。表記のちがいにもそれが表れている。1首目も同様で、疲弊しているときに歩いているとなんだか浮いている感じがする。それを「浮力あり」と思う。そういう視点でもういちど今の状況を見つめなおすとき、「乱雑に」という部分が見えてくる。

発見や把握の提示にとどまらず、さらにそれを起点にして歌が展開する。思うことによって、そこから、それを土台にすることによって世界の見え方がかわってくる。そのうえで、もういちど、それをつかみなおす。

山道をゆけばなつかし眞夏(まなつ)さへ冷(つめ)たき谷の道はなつかし
   斎藤茂吉『つゆじも』

「浮力あり」や「自分の力で」ほど斬新ではないけれど、この歌においてもまた、「なつかし」と思うことによって、その「なつかし」がさらに細かく描かれてゆく。まず「なつかし」と提示される。読者がそうであるのは当然だが、この歌においては〈私〉もまた「いまのこのなつかしいという気持ちはなんだろう。どこからきているのだろう。」という気持ちになる。そしてそれが三句以降に展開する。「なつかし」と思うことによって、「なつかし」が観測される。

おにぎりの厚さが短歌年鑑のやうだな米つぶの一つがわたし
   田村元

『現代短歌』4月号より。「おにぎりの厚さが短歌年鑑のやうだな」と思うことによって、すなわち「米つぶの一つがわたし」という見方が生まれている。

永田和宏『午後の庭』(2017年)

十三番目の歌集である。河野裕子を失ってのちの日々から歌集は始まる。

かくも悲しく人を思ふといふことのわが生涯に二度とはあるな
晩年とふを持たざりし君の悔しさを誰かがわかつてゐてはやらねば
   そして一年
一周忌と人に言はれてはあそんなものかと思ふどうでもよけれど

「二度とはあるな」「ゐてはやらねば」「はあそんなものか」「どうでもよけれど」と肉声が並ぶ。二度とはあるな、というときに思い返される人がいくらもあるのだろう。それはすでに失った人の顔であり、あるいはこれから失うであろう人の顔である。それが浮かぶから、二度とはあるな、と声が出るのだ。君の悔しさであれば、それは君にしかわからないのではないか、という気持ちが半分。しかしそれをわかりうる、そこに触れることができる、ともに抱くことができるというあり方も、半分わかる。一周忌という〈括り〉について、この歌につけたすことはない。「どうでもよけれど」というところへは入っていけないな、と思う。

     *

ふらりとひとりで吞みに入るといふことの息子にはできてわれにはできぬ

妻をおもう気持ちは自然と家族への視線に移る。それはときに自らの父母へ向き、またあるときは娘息子に向く。さらには孫、あるいは猫そのほかの動物、植物への眼差しもそこに加えられようか。掲出の1首は息子へ向けられている。

河野裕子が「さびしいよ息子が大人になることも こんな青空の日にきつと出て行く」『体力』とうたった息子である。この近くにあって遠いものとして息子を見つめる視線が、反射して、われに返ってくるような、そんな下の句と思う。

この歌から100ページばかり先にすすむとこんな歌がある。

さびしいよ どんなに待つてももう二度と会へないところがこの世だなんて

当然、先にあげた河野の1首をふまえているものと思う。家を出てゆく息子の背中はそのまま、この世を出ていってしまった妻の背中にかさなって映る。待っていれば、ときどきは帰ってくるであろう息子。待っていても、もう二度とは会えない妻。それぞれに異なる「待つ」ではあるが、それらを「さびしいよ」という声が内包している。

     *

あと3つ、歌をあげて終わりにする。

あなたとふやさしき言葉に呼ばれゐしあの頃あなたはわたしであつた
仰向けによろこぶ猫の無防備がうれしくて撫で丸めては撫づ
     尖閣のことなども思はれて
わが庭を自分のものと思ひゐる蜂がゐてむづかしいなり戦へば負ける

今はわたしを「あなた」と呼ぶ人はいない。わたしが「あなた」であった時間が、「あなた」であったころのわたしがまばゆい。二首目、「うれしくて」という素朴は永田の歌の特徴の1つであろう。そこにあって「丸めては撫づ」という結句がこの歌をひとつ特別のものにしている感がある。猫を丸めるという動作もそうだし、それを「丸める」と述べるところにも〈わたし〉が見える。蜂との緊張、という場面そのものは特別ではないが、たとえばそこに「尖閣のことなども思はれて」と詞書がつき、あるいはそこを起点としてか、蜂とわたしの緊張をもうひとつ踏み込んで掴んでいる。「わが庭」の「わが」への疑いがにじむ。こういう敷衍もまた永田の歌のひとつの姿である。



*歌の引用は歌集『午後の庭』(角川文化振興財団、2017年)に依ります。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。歌集に『温泉』(2018年)がある。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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