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『あらたま』を読むまで

『思川の岸辺』(2015年)をきっかけに小池光の既刊歌集を読み返し、エッセイや評論の類もいくらか読むにつれて、齋藤茂吉を読まなくては、という気持ちが湧きおこってきた。小池光と齋藤茂吉には共通点がいくらもある。韻律の差配や演出の方法など、小池固有のものとおもって愉しんできたその背後にうっすらと茂吉の影のあることを感じるようになったのだ。

それで茂吉、なのだが、これはもう何年も前に全集で片っ端から読んでやろうと意気込んで挫折したことがある。引用された歌やその鑑賞のなかでは親しみやすい茂吉の歌も、歌集となって並んでいるのをはじめから読んでいくとなると、状況がちがってくる。とにかく退屈だったのだ。しかしあれから何年か経って、昨夏には牧水を集中的に読んだこともあって、わずかに自信が持てたわけで、早速図書館へ行って茂吉全集を開いたのだった。これが2ヶ月前のことである。

まず『赤光』を読んだ。最後まで読み通すことはできたし、おもしろがって読んだのだが、どうも精彩に欠く。こちらが勝手なイメージでいるから相対的に、ということにはむろんなるのだけれど、思っていたほどには感激がなかった。うーん。それから並び順のとおり『あらたま』を読んだ。読み始めてすぐに「これだ」という気持ちが湧いてくる。豊かな韻律のバリエーションに、連写のごとく歌の並ぶ連作のいくつか。一気に読み通してしまった。

そういうわけで『あらたま』の中から好きな歌を挙げて感想を書いていくことにする。
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短歌の臨場感

角川『短歌』1月号が届いた。岡井さんの歌集が1月に出るとのこと。「鉄の蜜蜂」。かっこいいなあ。

かっこいいと言えば、角川『短歌』もリニューアルして表紙の雰囲気がかわった。『現代短歌』への意識がないとは思わない。強者の戦略だ。『短歌研究』も鈴木成一さんのところがデザインすると予告にはあったので、届くのを楽しみにしている。

     *

作品はおいおい読んでいくしかないとして、藪内さんの時評をまずは読んだ。緩急があって刺激的だ。「リアリティという病」というタイトルで、以下、時評の内容とは別に、そこから考えたことをすこし書いてみる。

「リアリティ」と「リアル」のちがい、とはよく言われることだが、「リアリティ」というのは「リアルっぽさ」であって、その「っぽさ」の部分がリアリティとリアルのちがいと思っている。

「リアルっぽさ」というのはあくまで「ぽさ」なので、ある短歌に対して「リアルっぽい」と思う主体が存在する。読みの場において、その「リアルっぽさ」を共有したり、その共通項からなにかを言ってみたりすることはできるけれど、基本的には一人一人「リアルっぽい」と思うかどうか、どのくらい思うかはちがってくる。であるから、ある歌の「リアリティ」について個人的に何かを言うことはできても、歌が固有にもつ「リアリティ」について断定的に何かを言うのはむずかしい。

では「リアル」はどうか。「リアル」については一応は――リアリティと区別する意味も込めて――共通のものを想定できる。しかし、「現に見えたもの」は見うるもののすべてではないし、「現に聞こえたこと」は聞きうることのすべてではない。共通の「リアル」を想定はできるけれど、それを、これがリアルです、という形で提示し、みんなの合意を得ることは困難である。みんなとは誰か、というのはあるにしても。

     *

短歌を読んだときに思い浮かべる情景というのは、たとえば「きのうの晩ご飯なんだった?」と質問されて「えーっと……」と想像するときに思い浮かべる光景と、基本的には同じものである。いずれも物理空間ではない、情報空間における景である。

たとえば映画館で映画を見ていて、はじめは気になっていた隣の人のポップコーンを食べる音が気にならなくなるのは、物理空間よりも情報空間(=映画のなかの世界)に臨場感があるからだ。この臨場感が「リアルっぽさ」だと思う。物理空間がリアルであるとして、情報空間に臨場感がうつっているとき、その情報空間にリアリティを感じる、と言うのではないだろうか。

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藪内さんの時評についても、いずれ考えをまとめたい。

石松佳さんの詩のこと

『現代短歌』1月号では「詩のプリズム」という喜多昭夫さんの連載で石松佳さんの詩が取り上げられていた。「次世代エースの予感」というタイトルで、いくつかの詩が引用され、鑑賞がなされている。冒頭の部分を引用する。

石松佳の詩に注目している。「現代詩手帖」新人作品(投稿欄)の常連である。


うんうん、と頷く。この1年、毎月のように載っていた気がする。これまで『現代詩手帖』と言えば、短歌の時評的なページとその他ぱらぱらとめくって気になったところを読むぐらいで、おもしろい特集であってもなかなか買うところまではいかなかった。今年も図書館で読むくらいであったが、なんども買おうか迷ったのだった。

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『短歌研究』1月号では「現代歌人百人一首」という特集に呼んでいただいた。お題は「散歩」。ふだんから散歩はするのだが、あらためてお題にされてみると、どこを歩こうかとずいぶん考え込んでしまった。あまりにも素朴だと特集にはふさわしくないし、だからといっていかにもなコースを選ぶことも躊躇われる。

結局選んだのは「博多埠頭」である。天神から歩いて行くのにちょうどいい。須崎公園を抜けて橋を渡り、川沿いの道をまっすぐ行くと都市高速にぶつかる。その先に、博多埠頭はある。ビールと埠頭と船の好きな詩人・石松佳さんのことを思い出しながら歩いたのだった。

     *

冒頭の文章は、

一番最初に「かみやうどん店」という詩に出会った。


とつづく。わたしもそうであったかもしれない、と思う。石松さんの詩には、声と情景がとけあうように息をしている——そんな質感がある。場面の連絡はとどこおりないのだけれど、じんわりと心を刺激してくるのだ。日常と詩の境はこんなにぼんやりしているんだな、と思うほどに、いきなり「詩の領域」に引っ張られ、気づいたらまた日常に安堵している。石松さんの詩を読むことの体験は、ほとんどの場合そんな感じだ。

むろんフレーズの面白さもある。行を次へいくことの技術的な話題もあるだろう。少しずつ読んで、考えていきたいなあと思う。

ここ数日のこと

「毎月歌壇」の選歌がおわり選評を書いて石井さんに送稿した。人それぞれ読み慣れた短歌のゾーンがあると思うのだが、そのことをいつになく意識させられた。1本のビルに譬えてみると、わたしがいつも3階から見ている景色と、25階の景色はちがうし、地下1階の景色はちがう。そういう感じ。良し悪しではない。慣れているかどうかだ。玄関は1階とは限らないし、連絡通路は何階にあるんだろう。そういう1本のビルのいろんな階で短歌をやっている人がいる。

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Googleで「現代短歌」と検索してみる。今使っている機械だと、トップに【クイズ】下の句を当てろ! 前衛的な“現代短歌”セレクションというページが出てくる。クイズはクイズとして、「おわりに」の部分で斉藤斎藤さんのことばが引用してあってはッとする。孫引きになってしまって嫌なので、時間があるときに現物を確認したい。「地下はしずかでいいですよ」とか「展望台から見える景色はきれいですよ」とか、そういうことを言って安心したり読むのをやめたりしないでいたいと切に思う。

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ここのところを続けて歌集を読んでいるが、歌を引くときの癖や、歌について何か言うときのことばの癖が思い知らされる。それでも書くことによって、読みが変わったり、読めていなかった部分に気づいたりすることはうれしい。ことばにはまだならないような感触を大事にしたいとも思うし、それをことばにすることを諦めないでいたいなとも思う。

大室ゆらぎ『夏野』(2017年)〈後〉

 大室ゆらぎ『夏野』(2017年)〈前〉につづけて書く。

     *

 生き物の気配の濃い一冊である。
 それはときに死のほうから照射される生であり、また体温と体温とが呼応するところにうまれる生である。

これほどにおたまじやくしがゐるからはその四倍は出づる手と足
手と足はつめたいけれど胴体はまだあたたかいその腹を撫づ

 おたまじゃくしがたくさん居て、それらはやがて手が生え足が生えして蛙になる。おたまじゃくしがみな蛙になるとすれば、おたまじゃくしと蛙の数は等しい。「たくさん居る」感じに変化はない。しかし、「その四倍は出づる手と足」と言われてみると、あまたの手と足がうごめきひしめくさまが浮かんでくる。不気味でさえある。
 2首目、「たましひの玉藻」という一連から。「玉藻は黒猫 入院中死去 九歳」とあるので、「手」「足」「胴体」「腹」はその黒猫のものであると思われる。「つめたい」ところと「あたたかい」ところがある、という描写からは、その肉体感のリアルなところを感じると同時に、その「時」が固有であることが思われる。手も足も胴体も触れたのちに、まだあたたかい腹を撫でるのだ。生のかすかな、しかし濃い気配がある。

     *

 一冊を通して温度の保たれた歌集だなあ、と思う。〈われ〉のかげは幽霊のようにしたがうが、精神だけが浮遊しているようなふしぎな立ち姿をしている。

振りかへるゆふべ寒しも襟首を十二夜月に差し覗かれて

 差し覗かれて、と言われることによって月とわたしの温度はひとしく映る。二句切れのあざやかな場面転換も寒さと通じるところがある。

繰り返すよろこびはあり元旦もふとんについた猫の毛を取る

 繰り返すことのよろこびを言い、それはたてえば元旦「も」ふとんについた猫の毛を取ることだと言う。こういうスタイルは〈よろこびは遠くにありぬ白昼を砂州の薄さに浸みる川水〉(大室ゆらぎ『夏野』)にも見られる。読者はまず「繰り返す」ことの中身を思い、元旦という特別な日でさえ、ふだんと変わらず猫の毛を取るそのしぐさを思い浮かべる。

熟れ過ぎた桑の実を摘む潰さぬやうに 潰してしまふ

 四句欠落と読んだ。「潰さぬやうに」の慎重が生んだ時間だろう。いかにも沈黙がふさわしい。「潰してしまふ」はごく自然な成り行きにうつるのだ。

あたたかい犬のからだを抱き上げる立てなくなつた犬のからだを

 「ゆらぎの死」より。〈ゆらぎはダルメシアン 十三歳〉とある。「あたたかい犬のからだ」は抱き上げる動作をあいだに挟むことによって「立てなくなった犬のからだ」に更新される。これは〈わたし〉の意識であるのだが、「犬のからだ」ということばを二度使うことには、〈わたし〉の側の変化によって二度目のそれは一度目とはちがうものになっている。たとえば〈川土手にジグソーパズルは燃やされてジグソーパズルのかたちの灰は残りぬ〉(大室ゆらぎ『夏野』)という歌があり、ここにも「ジグソーパズル」が繰り返し用いられる。

     *

日本語に訳されたときホメロスに軍記物語の文体は顕つ

 このたった一首を挙げただけであれこれ言えることではないし、小池光が帯に書いた「かわりばえのしない日常生活に、ギリシャ・ローマの古典などがふと影を添えてくる。」という一文を引用するほかないのだが、生物の糸があれば、こうした古典の糸もあり、それらが織り合うように一冊となっている。
 翻訳というのは、意味内容の面ではある程度正確に書き換え得るのだろうけれど、その文章の温度や文体やリズム・テンポをどの程度再現あるいは翻案してみせるか、というのは翻訳者の腕によるのだと推測される。そういう点から一首を読めば、原文で読んでいたときには感じられなかった軍記物語の感じが訳文によって顕れ出た、ということだろうか。あるいは、訳者の意図によっていわば軍記物語風(ふう)に書き換えられた、ということだろうか。それはともかく、いまこの場においては日本語に翻訳される前と後のものが想定されていて、そこにひとつの更新があったことは確かである。そのことが「文体は顕つ」という結句にあらわれている。

 さいごまで、とりとめなく書いていく。

遠雷を恐れて帰る、小走りは日本の女のしぐさならむよ

 遠くのほうで雷が鳴っていてじきこっちにもやってきそうなあやしい雲行きである。はやいとこ家に帰ろうと小走りになる。思いっきり走ってもいいところを、小走りである。着物をきていれば大股では走れない。そのころに身についた姿勢だろうか。あるいはそういう姿勢になるように着物が作られたのだろうか。全くの想像で何も言えないのだが、「小走りは日本の女のしぐさならむ」と言われたときに想像できることはいくらでもある。姿勢が精神をつくるし、精神が姿勢をつくる。

花のうへに花は積まれて腐りつつ土手へとつづく日ざかりの道

 ひとつ前に〈野づかさの墓地のはづれに束のまま捨てられてをり枯れた仏花は〉(大室ゆらぎ『夏野』)とあるので、そのイメージを引き受けて読む。まえに供えた花をのけて新しくもっていきた花を供える。古い花はその辺に積まれたままになっているのだろう。枯れる部分もあるが、水につけているので腐るというほうがあのじめっとした空間をも想像させてくる。

終日を黙つて過ごすにんげんがことばを持つて七万年後

 にんげんがことばを獲得し、それを使い、いろいろのことができるようになり(またできなくなり)、ともかくその突端の今日のひと日を黙って過ごす、ことのふしぎはなんだろう。いや、別に何も話さない日があったっていいわけだが、こういう時間のスパンで言われると変なことのようにも思われる。ことばはこれからどうなっていくのだろう。
(おわり)



※引用はすべて歌集『夏野』(2017年、青磁社)に依ります。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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